「道」なるもの
金光教報 6月号 巻頭言
佐藤範雄師が若い頃、「金光様、あなたの教えなさる道は唯一神道でありますか、両部神道でありますか」と尋ねたところ、「此方は唯一神道も両部神道も知らぬ。ただ、天地の道理を説いて聞かせておる」と、裁伝(神からの伝え)があった(理解Ⅲ内伝5―2~7)。この応答を単純化すれば、「この道はどちらですか」に対し、「どちらも知らない。ただ天地の道理を説いている」ということになる。どちらなのかという質問に対しては、知らないという答えであり、その後の答えも質問とかみ合っていないように見える。
質問は、既成の宗派の枠組みを当てはめるべく問いかけている。世間的基準をもって計ろうとする方向であり、そのような基準からは、「ただ、天地の道理を説いて聞かせておる」との答えは、「ただ、~しているにすぎない」という消極的なニュアンスに聞こえるかもしれない。
しかしよく見ると、問いの次元と答えの次元が異なっているための、当然起こるべきかみ合わなさだということに気付かされる。宗派の別を問う問いに対して、それ以前であり、それ以上でもある天地の道理をもって答えられるからである。その次元からすれば、この答えは、「ただ、そのことだけでよい」という充じゅういつ溢となって、厳然と響き渡る。そして、むしろ質問の方が間違っている、あるいは質問する者の小ささが浮かび上がるような答えであった。
この応答がもたらしたものについて佐藤師は、「この道は、まったく世に伝えのなき天下無類の神の伝えをお開きなさる神聖なる道であるという気がした」とも、「一段階、神の方へと進ませていただいた」とも述べている。
教団は人間が作ったものであるが、道は人間には作れない。道は人間に先立ってあり、人間にこの道を歩めと呼びかけるものであろう。後に教団組織化に尽力する佐藤師が、道という限りないものに出合わされた経験であり、翻って今のわれわれも、間違った問いを立てていないかと自問させられる。