尊い人
金光教報 10月号 巻頭言
「偉い人じゃと言われるよりは、尊い人じゃと言われる信心をせよ」という金光四神様の御理解がある。
偉い人と言われるのも簡単なことではないが、「尊い人」には、人の努力では及ばない境位のようなものが予想される。
石牟礼道子著『苦海浄土』に、胎児性水俣病患者である孫の少年(9歳)のことを、祖父が独り語りする場面がある。体はようよう這うばかりで、目は見え耳も聞こえるが喋れない。食事も排尿便も世話してもらう。行く末を案じ、悲しみ苦しみを吐き出しながら、「魂は底の知れんごて深うござす」と祖父は話す。紛れもない不幸の中で、「家のもんに心配かけんごと気い使うて、仏さんのごて笑うとりますがな。それじゃなからんば、いかにも悲しかよな眸め ば青々させて、わしどもにゃみえんところば、ひとりでいつまっでん見入っとる」と語る祖父もまた、孫の中の尊いものを、畏敬にも近い驚きで見入っているかのようである。
ある教師が、三代金光様(金光攝胤様)のお退けをお見送りした後、高橋正雄師に「金光様はどうしてあんなにありがたいのでしょうか」と尋ねたら、「それは、金光様があなたを拝んでくださっておられるからだ」との答え。最初は、あっけにとられる思いだったが、後になって金光様が自分の、そして全ての人の立ち行きを願い通しておられたからだと思えるようになった。
「尊」という漢字は、元は、酒器を両手で捧げ、神前に供える形を示していたという。その意味では、まずは神に向かい、神に仕える姿勢を表す。しかし『苦海浄土』の祖父にも三代金光様にも、尊いものに向かうことから翻って、全てを尊いものにしていかずにはおかぬという祈りの向きがあるように思う。
作家小川洋子さんが金光教のラジオ放送で、「自分の命より大事なものと出会うことが子育てだ」と語っていた。子どもが何よりも「大事」だと感じられるのは、もちろん親子の情愛による。それに加えて、目の前にある小さないのちの厳粛さ、決して冒されてはならぬものが身に迫ってくるからだろう。
神にせよ小さきものにせよ、尊いものを感受して、これを拝み、これに仕える人こそ、尊い人なのだと思われてならない。その面影は、「神からも氏子からも両方からの恩人」と称えられた教祖様に重なってくる。