神様を主語に
金光教報 9月号 巻頭言
人と接する中で、相手との間に親近感を感じたり、反対に少し距離感を感じてみたりということがあります。それは、相手から醸し出される雰囲気と、こちらが醸し出す雰囲気、その両方が相まってということかもしれません。
また、話を聞きながら、この人の話は何かすごいなと感じたり、惹きつけられると感じたりすることがあります。それは、話の背景に垣間見える、相手の持っている幅広く奥行きの深い見方や考え方、はたまた、自分の価値観や枠組みを超えたものに出合った驚きに、畏敬の念が生まれてくるからかもしれません。
そうした人との出会いにより、その後の生き方、考え方までもが変わり、運命が大きく切り開かれていくこともあるように思います。教祖様に出会った人たちもまた、出会いにより運命の展開が始まり、その後の人生が大きく変化していったのだと思います。
教祖様は、参って来られる人々の助かりの事実に出合い、その体験を重ねられることで、神様が一人ひとりの氏子にいかに願いを掛けられ、「助けずにはおかない」とのみ思いを持たれているかを実感されました。そうして、いよいよ神様の前立ちとしての御用に精進されていかれたというご信心の様子が、教祖様の「神人物語」からうかがえるのであります。
教祖様に触れられた直信たちは、教祖様の御取次のみ姿や、語り掛けてくださったみ教えを幾度も思い浮かべ、自身の中で繰り返し味わいながら、全ての人の助かりと立ち行きを祈る中で、神様のみ思いを語り継いでいかれたのだと思います。今を生きる私たちは、そうしたこのお道のご縁につながって、おかげを受けてここまでに至っているのだと思います。
しかし、教祖様以来、お道の先人たちが大切にしてこられた神様のみ思い、み計らいを常に心にし、何事も神様の仰せどおりにありがたく受けさせていただくという姿勢が、現代社会を生きる中で揺らぎ、人間考えのみで物事を受け止めてしまった結果、神様のみ働きを見いだせなくなってしまっているような気がしています。
神様のみ思いを大切にし、「神様が主語」であったものが、いつのまにか人間中心の「私が主語」の生き方、在り方になってしまっているのではないかと感じます。そうした中にあって、神様の広大無辺なおかげの世界が確かに人に伝わるために、今あらためて一人ひとりが神様との縦軸を深めていく信心の稽古をさせていただくことの大切さを思います。