教会で教わったお礼と感謝の心【金光新聞】
叔母に誘われ教会へ
私(49)はこれまでを振り返った時、金光教の教会に参拝してきたおかげで育てられてきたなあと思えます。
私は16歳の時に、高校を中退し、飛び出すようにして親元を離れました。そして、県外に住む叔母の元へ行き、住み込みで仕事を手伝うようになったのです。けれども、慣れない仕事に加え、友達もいない環境に、だんだんと寂しさを感じるようになっていました。心配した叔母が「私がお参りしている金光教の教会に一緒に行かない? 同年代の子もいるから友達ができるかも」と、誘ってくれました。
正直、気乗りはしないまま、叔母に付いて教会へ行きました。そんな私に、教会の先生が「今度、教会にお参りしている子どもたちみんなで潮干狩りに行くのだけれど、君も来ない?」と、声を掛けてくれたのです。
潮干狩りはとても楽しく、何より同年代の子たちと仲良くなれたのがすごくうれしかったです。そろそろ帰ろうかという頃、先生が「今日は天地の間で楽しく遊ばせてもらったお礼に、1人につき、ごみを10個拾いましょう」と言うのです。私は「何で?」と、戸惑いましたが、みんなは一斉に拾い始めました。仕方なく私も拾いましたが、帰りのバスの中で、何ともすがすがしい気持ちになったのを覚えています。
教会では、行事のたびにごみ拾いがありました。以前は平気でごみをポイ捨てするような私でしたが、教会でのごみ拾いを通して、お土地に申し訳ないことをしていたのだと教えられました。このように教会では、ただ遊ぶだけでなく、人として大切なことを教えてもらえるのです。
手伝いとご用の違い
大祭の時には、大人も子どもも、それぞれに「ご用」が与えられます。私の初めてのご用は、下足札に番号を書くことでした。私なりに一生懸命していたのですが、先生から「もう少し丁寧に書きなさい」と、注意されました。
私は「字が下手だからしょうがない。手伝っているのに、何でそんなことを言われるのか」と腹が立ちました。すると先生は「今、あなたがしているのは手伝いではなくてご用なんだよ。ご用は神様へのお礼と感謝の気持ちをもって、喜んでもらえるようにさせてもらうことが大事。その書き方で喜んでもらえるかな? 丁寧に書いてみて」と、優しく教えてくれました。確かに丁寧ではなかったし、神様へのお礼や感謝もありませんでした。先生の言葉に納得した私は、気持ちを整え、まずは「丁寧に」を心掛けて書きました。
それからというもの、私は先生から教わったことを思い出しながら、教会での全てのご用を、神様のご用として励むようになり、普段の仕事でも意識するようになりました。
信心は親孝行と同じ
私は元々、辛抱が苦手な性分です。叔母の元に行くことが決まった時も、周りから、「どうせ、音を上げてすぐに帰ってくる」と言われたほどです。そんな私が、教会と出合い、先生や信者さんたちが優しく迎え入れてくれたおかげで変わりだしました。
今では結婚し、2人の子どもを授かりました。子を持って親の恩を知った私に、「信心は親に孝行するも同じこと」という、金光教のみ教えが響いてきます。おかげで、かつて飛び出した実家の両親とも、間柄は良好です。
親以上に私たち人間のことを思ってくださる神様にお礼を申しながら、2人の子どもに、そして、もっと多くの人たちに、金光教の信心が伝わることを願っています。
※このお話は実話をもとに執筆されたものですが、登場人物は仮名を原則としています。