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命を懸け信心を伝える【金光新聞】

70歳の誕生日を目前にして

 私(71)の母は、裁縫と料理の腕が自慢で、特に祖母仕込みの料理は、母のきょうだいから「おふくろの味そのものだ」と、よく言われていたそうです。そん
な母が亡くなって、今年で35年になります。
 私が幼い頃、家には水道がなく、坂と階段を下った所にある井戸を使っていたことがありました。母は、おけとてんびん棒で水を運び、1日に何度も上り下りしていました。体が小さい母には重労働だったようで、よく体調を崩しました。
 熱心な信奉者家庭に育った母でしたが、当時は教会から離れた所に住んでいたため、自宅のご神前で神様にすがる思いで、日々の無事をご祈念していました。家族をはじめ、父の部下やその家族に心配事があれば、教会の先生に手紙を書いてお願いしたようです。

 私が高校を卒業した年に父は亡くなり、その後は母一人で私たち4人の子どもの面倒を見てくれました。
 母は口下手でしたが、周りの人に喜んでもらえるよう、気配りを忘れたことはありませんでした。近所へのお裾分けは、必ず形や色が良い物を渡すので、家には見栄えの悪い物ばかり。私が不満そうに「どうして?」と尋ねると、「喜んでもらえると、うれしいでしょ」と笑顔で答えたのを覚えています。
 私たちきょうだいが一人立ちしてからは、兄家族が実家を建て替えて母と同居し、私は母を連れてよく旅行をしました。それは、母のこれまでの苦労に報いたいという思いがあったからでした。母はそうした一つ一つのことを喜んでくれていました。ところが、「これからは、孫たちに囲まれて、ゆっくりとした生活
を楽しみたい」と言っていた矢先、母は70歳の誕生日を前に骨髄がんと診断され、歩けなくなってしまったのです。

命に代えてでも信心を

 担当医は、なるべく母に苦痛がないようにと、工夫して治療を進めてくれました。しかし、病状は悪化の一途をたどり、「足の中にたくさんの虫がはっているように痛い。足を切って」と母が泣きながら訴えてきた時には、私はどうしてあげることもできませんでした。激痛と足の腫れで身動きが取れなくなった母を見て、私は思わず、「あんなにも熱心に信心して、みんなのことを祈ってくれていたのに。どうして…」と口走ってしまいました。
 この言葉でわれに返った母は、信心するわが子に、そんなことを言わせてしまった申し訳なさや、大病を抱えながらも、今こうして生かされていることへの感謝の気持ちなど、次々に思いが込み上げてきたそうです。そして、自分の命に代えてでも、信心のありがたさを皆に分かってもらいたいと、夜通し祈ったと言っていました。

 すると、翌日から痛みが薄れだし、足の腫れも2日後にはなくなってしまったのです。激痛から解放された母は、いつもの穏やかな表情に戻り、看病をする私や義姉たちもほっと胸をなで下ろしました。そのおかげで、夜に付き添った時、母と遅くまで思い出を語り合い、にこやかに談笑することもできました。そうして入院から4カ月後、母は安らかに亡くなりました。
 病室での母との時間は、30年以上たった今でも鮮明に思い出されて涙がこぼれます。いつも見守ってくれている母から「今日もいい生き方ができたね」と、あの笑顔で「花丸」がもらえるよう、日々、神様の願いに沿って生きていきたいと願っています。
※このお話は実話をもとに執筆されたものですが、登場人物は仮名を原則としています

「心に届く信心真話」2020年9月20日号掲載

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タグ: 文字, 信心真話, 金光新聞,