氏子の多様さ認める取次を【金光新聞】
少数者を知り、誰もが助かる社会目指す
性的少数者を表す言葉の一つである「LGBT」。私が会長を務める金光教LGBT会が発足してから、金光教内外でLGBTのことを伝える機会を与えてもらっている。手応えを感じる一方で、人々の中にLGBTへの理解に意識の差があることも感じている。
社会によって「ふつう」は変わる
「もし、自分の子どもが同性愛者だったら、私は恥ずかしく思います」。私がLGBTについて講話した後に、ある参加者から直接言われた言葉である。これは、今の日本社会で底流をなす本音の一部だと思っている。偏見や誤解、否定的な本音にさらされる生活環境では、LGBTの当事者たちは自分のセクシュアリティー(性の在り方)を隠さざるを得ないことが多い。
海外では、同性婚が法律で認められ、子どもの養育を選択できるのが「ふつう」の社会もあれば、同性愛は違法で逮捕されるのが「ふつう」の社会もある。日本では数年前から、自治体によって同性同士でも公的にパートナーと認める「パートナーシップ制度」が導入されてきている。国内でも、子育てをするLGBTの当事者はいるが、それに対して「子どもがいじめられたらかわいそう」といった否定的な見方の人も見られる。しかし、その見方は差別や偏見がある社会を「ふつう」としてしまってはいないだろうか。
複数の同姓カップルが「誰もが結婚を選択できる平等な社会に」と訴えた裁判で、今年3月17日、札幌地裁が「同性間で(同性愛者が)結婚できないのは、憲法が定める法の下の平等に違反する」との判断を示した。これもきっかけとなり、いつかLGBTの人たちやその家族も「ふつうにいるよね」と言える社会になればと願っている。
人は分け隔てなく神のいとし子
以前、あるLGBTの当事者の信奉者から「参拝している教会の先生に自分のセクシュアリティーを言えていないので、神様に本当のことをお届けできていないようで気になっている。井上先生から神様にお届けしてほしい」とお願いされたことがある。私は、神様に本当のことをお届けしたいという氏子の心をとても尊く感じた。同時に、分け隔てなく「人は皆、神のいとし子」だと思えて、胸の内に温かいものが込み上げてきたのを覚えている。
教祖様のお広前には、さまざまな立場の氏子が参ってきた。抱える難儀も人それぞれであっただろう。教祖様は、その一人一人に応じたお取次をなさり、おかげを授けた。そして、日柄方角にとらわれないことや、「女は神に近い」「四は死に通い、悪いように思うかも知れないが、始終幸せともいうて、これでよいのである。注連縄しでも、すべて四にせよ」など、当時の「ふつう」を捉え直すご理解をされた。
社会の多数派が持つ「ふつう」という感覚が、その社会の常識や通念となる。しかし、実際は一人一人が生まれ持ったものは違うし、生き方は多様なはずだ。社会の中でマイノリティー(少数者)と呼ばれる人たちと出会ったり、知ることで、改めて自分自身の「ふつう」、信心の「ふつう」に向き合い、見直すことができる。私は、神様から頂いたそうした機会を通して、あらゆる人が生きづらさを感じることのない社会にしていきたいと願っている。もちろん、社会環境によって、人生の選択の幅が大きく変わるのは、LGBTの当事者に限った話ではないだろう。
神様が願う「総氏子の助かり」のためには、氏子の多様さを認め、それぞれを神のいとし子として受け止めるお取次が大切だ。それとともに、氏子を取り巻く生きづらい環境、氏子が助からない「ふつう」があるのなら、そういう状況を変えていく働きも必要だと考えている。それらが相互に働き合いながら、「総氏子の助かり」へと進んでいくのではないだろうか。
(上部画像説明)
少数者の権利を求める運動の象徴に、虹をモチーフにした旗(レインボーフラッグ)が用いられている。考案者の故ギルバート・ベイカー氏は「虹は、多様性を受け入れるということを瞬時に理解させてくれるんだ。虹は美しく、全ての色が含まれている。私たちのセクシャリティーは、全ての色だ。私たちは全てのジェンダーであり、人種であり、世代なんだ」と述べている。