話をつつむ「心の風景」見る【金光新聞】
「話を聞いて助かる道」となるには
時間に追われ、あくせくと日々を生きる私たちは、人の話をじっくり聞くのが苦手である。本教信心の核心である「話を聞いて助かる道」となるには、まずは人の話を「聴く」力を培うことが、重要ではないだろうか。
大学の授業で講義をしていると、ただ単に受け身で「聞いて」いる学生と、積極的に「聴いて」いる学生とで、目の輝きが異なることに気付く。
講義を「聞く」だけの学生は、試験が終わると聞いたことの大部分を忘れてしまうようだ。一方、講義を「聴く」学生は、授業後、よく質問に来る。このような学生は、試験後も、講義で身に付けた内容を生かすことができるはずだ。
この「聞く」と「聴く」の違いは、英語のhearとlistenの違いに似ている。前者が「(意識しなくても)聞こえる」を意味するのに対し、後者は「意識的に聞く」という意味である。ところで、私自身反省することが多いが、現代人は人の話をじっくり聞くのが苦手なようだ。つい、相手の話の一部を聞いただけで、物事を判断してしまいがちである。
せっかちなのは、時間に追われて生活していることからくるのかもしれないが、漢字で「忙(しい)」は「心」を「亡」くすと書き、「慌(ただしい)」は「心」が「荒」れると書くように、心にゆとりがないと、他人の話をゆっくり聞くことは難しい。
前教主・金光鑑太郎(かがみたろう)様のお言葉に、「話し合いは、主張するだけでは話し合いにはなりますまい。話し合いは、本当は聞き合いであって、相手の言うことをよく聞くことが土台にならないと、よいものは生まれてもこないし話もまとまらないと思うのであります」(『生きる力の贈りもの』)とある。昨今の国会中継を見ていると、やりとりの様子は真逆を行っているようで、恥ずかしくて子どもには見せられないと感じることもしばしばだ。
ところで、「話を聞いて助かる道」であることは、本教の信心の核心である。その場合の「聞く」は、正確には「聴く」であろう。しかし今日のお道では、金光教教典をはじめとして、文字化された教えがあふれており、それはそれで信心の糧となるのだが、「読む」ことを強調し過ぎるあまり、話を「聴く」力が衰退しては元も子もない(お説教に対しても取次の場においても)。
さらに、奥の深い話の内容を理解するような時には、もちろん集中して「聴く」ことが要るが、「神人あいよかけよの生活運動」で願われているように、「神心となって人を導く」ためには、相手の話を丸抱えにするように聴く姿勢が求められよう。例えば、詩人の長田弘さんが臨床心理学者の河合隼雄さんについて、「話を聴くというのは、その話を理解することでなく、その話をはぐくんできた心の風景を見るということ。じっと聴いていて、河合さんは、その話をつつんできた心の風景をじっと見ています」と語っているように。
教祖金光大神様は、参ってきた人それぞれに、時間が許す限り話して聞かせた。各人によって伝えられた教えには、同じような内容もあるが、個別的な話の方が多い。すなわち、相手の状況に応じて、いわば臨機応変に話をしているのである。そのためには、当然ながら参ってきた人の話をしっかりと聞(聴)いていることが前提とならざるを得ない。
教祖様は、相手の心の声を聞く力が並外れていたのだと思う(だから神様の声も聞けたのだろう)。そしてこのことは、取次の本質に関わることではなかろうか。
すなわち、取次者やお手引きをする者が、取次を望む者や助かりを求めている者の話をしっかりと「聴く」姿勢があって、初めて個々の「心の風景」にふさわしい「ご理解」が紡ぎ出されるのである。
「フラッシュナウ」金光新聞2020年4月5日号掲載