納得する答えを共に探して【金光新聞】
教誨師と被収容者とで結ぶ信頼関係
刑務所などの被収容者の更生を手助けする宗教教誨(きょうかい)師のご用をする中で、話を本気で聴くことから生まれる信頼関係が大切だと感じている。そのような関わりをきっかけに、被収容者が自分の人生をかいあるものだと心から思える時、本当の意味での更生ができていくのだと思う。
少年刑務所で宗教教誨師のご用を頂いて20年になる。少年と言っても、被収容者は主に20〜26歳の青年で、これまで私はご用を通して多くの彼らに会ってきた。一対一で話す個人面接だから、まさに会ってきたという感覚だ。
今では、その顔をはっきりと思い出せない青年も多いが、一様に感じるのは悪ぶってはいるものの、どこにでもいる若者と大差があるようには思えないということだ。さまざまな条件が重なり、道を踏み外してしまっているように見える。出所する時、「お世話になりました。これから頑張ります。近くに来たら、ぜひ声を掛けてください」と、入れ墨が入った太い腕で握手を求めてきた彼。「先生からもらったお札のようなもの、一生大切にします」と、私が渡した「天地書附」をいかにも大事そうに扱ってくれた彼。どれもこれも私の心の財産になっている。甘いと言われるかもしれないが、彼らを信じたい。信じて祈るしかないと自分に言い聞かせながら、ご用している次第である。
私は月に1度、彼らと面接する際、相手の話にできるだけ耳を傾けようと努めている。互いに本音で話し合いたいと思っているからだ。それには信頼関係が結ばれる必要がある。ところが、同じ被収容者と継続して面接できるとは限らず、毎月のように相手が変わる
ことの方が多い。それでは本音で語り合う信頼関係を築くのは難しいと、長い間そう思い込んでいた。
ある時、先輩の教誨師から、「初対面であっても、話を本気で聴いてくれる人だと思ってもらえれば、信頼関係はつくれる。一人の対等な人間として、相手の言葉に耳を傾ければよい」と教えて頂いた。教え導く(教誨師)─教え導かれる(収容者)のような関係にとらわれず、常識から相手の話を測ることもしない。相手のためと気負わず、共に人生を歩む者として向き合い、本気で聴くこと。このことは、人が助かる場である教会でご用する金光教教師の大切な心構えでもあるだろう。
彼らと接していて、自分のことを真剣に考え、心配し祈ってくれる人がいるということが、どれだけ生きていく力になるかということを思う。そういう関係性の中で語られる本音は、時に彼らの人生そのものに触れたような感覚をもたらすことがある。
それまで当たり障りのない話をしていて、面接時間の終わりを迎えた頃、「子どもに会いたい」と、つぶやくように言った彼。別れた妻のもとにいるわが子への思いが痛いほど伝わってきた。本当は誰しも自分の人生を語り、その言葉を受け止めてもらいたいと望んでいるのだろう。ささやかな私との関わりが、彼らが立ち上がろうとする一助になればと願っている。
時には、私が思わず答えに詰まるような人間観や人生観に関わる問いを投げ掛けられることもある。常識的な通り一遍の答えは浮かぶが、それを話したとしても彼らの力にはなれないだろう。ある時、そういう問い掛けを受け、私は「一緒に考えていこう」と言わせてもらった。彼らが、自分の人生や命をかいあるものだと思えた時、「ああ、やっぱりそういうことなんだな」と、心から納得する答えを得られるのではないかと思う。そのくらい時間がかかることであり、更生は決して簡単なことではない。それまでの時間の中で、彼らが自ら何か考えるきっかけをつくっていければと思っている。
安部賢雄(宗教教誨師/兵庫県出崎教会長)