平和への祈り
金光教報 「天地」8月号 巻頭言
本年も7月に平和集会が東京、広島で開催され、8月には山口、長崎で開催される。集会の成り立ちや歩みに違いはあるが、根底に流れるものは「世界真の平和」を願ってのものであり、その実現に向けて取り組みがなされている。
明治元年、教祖様は親神様からのよざしのままに、「天下太平、諸国成就祈念、総氏子身上安全の幟(のぼり)染めて立て、日々祈念いたし」との願いを込められた。その願いを受け継がれて、歴代金光様をはじめ、直信先覚先師もまた、その時代時代に祈りを込められた。
そうした時代を経て、昭和21年10月の本部大祭の折、三代金光様はご諭告で、「新日本の再建、天下総氏子の安全、世界真の平和実現の為に一路邁進(いちろまいしん)して、我が立教の使命達成の大御蔭(おおみかげ)を蒙ることの出来ますよう、切願の至りに堪えませぬ」と、戦後の荒廃したなかにあって新日本再建に向け、さらには世界真の平和実現を切に願われておられる。
そうしたみ心を受けて、先人たちはいかにすれば神様のみ心にかなう真の平和となりうるかを求め続けられた。
教祖様は、参拝する人々に対して、「金光大神のことを生神と言うが、金光大神ばかりではない。この広前に参っている人々がみな、神の子である」と諭されている。神の子は、神を信仰する人のみを指しているのではない。「天が下の者は神の氏子」「神は平等におかげを授ける」と仰せである。信仰の有無にかかわらず、世界中の人々がみな神の氏子である。「天が下に他人ということはなきものぞ」とも仰せである。自分も他の人も同様に神の氏子である。他者は単に他者として存在するのではなく、神の氏子同士としての他者である。「神の氏子であるから、その難儀に対して、親たる神が放っておかない。おかげを授ける」と仰せられるのである。神の前にはすべての人間が無条件に救われるべき神の氏子なのである。しかし、人間社会の中では、自分の存在は国家、民族、身分や階級、職業、性別、その他すべてが人間社会の作り出した枠組みの中に位置づけられ、互いに憎しみ合い、争い殺し合いさえもある。
それでは私たちは神の氏子としてどうあればよいのであろうか。教祖様は「人は金光大神のことを生神と言うが、金光大神も、あなた方と同じ生身の人間である。信心しておかげを受けているまでのことである。あなたも、神の仰せどおり真一心に信心しておかげを受け、人を助けて神にならせてもらうがよい」「人が人を助けるのが人間である。人間は、子供がころんでいるのを見て、すぐに起こしてやり、また水に落ちているのを見て、すぐに引き上げてやることができる。人間は万物の霊長であるから、自分の思うように働き、人を助けることができるのは、ありがたいことではないか。人間は病苦災難の時、神や人に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのが人間であると心得て信心をせよ」さらに「不幸せな者を見て、真にかわいいという心からわが身を忘れて人を助ける、そのかわいいと思う心が神心である」とも諭してくださっている。いただいている神心をもって人を祈り助けるのが人間なのである。
次の文はある方が養護学校に入っている時、17才の記念に自分の思いを書いたものである。
「こんな子生まれてよかったんですか、お母さん。こんな子でも愛してくれますか、お父さん。あなた方の夢をこわした私。こころの中で泣いているでしょうね。ごめんなさい。私は今明るく生きています。それが親孝行だと思っていいですか。お父さん、お母さん。それ以外何もできません。許して下さい。」
「お母さん、何でこんな子生んだのかとお母さんを責めた私。本当は私が責められないといけないのにね。あなたは普通の子と同じにお腹をいためて私を生んでくれた。その期待にこたえられなくてごめんなさい。私は恋もした。悲しみに出会った。それらはみんな私にとって生きる喜びにつながった。生まれてきてよかったです。生んでくれてありがとう。この世ってすばらしいところですね。お母さん。」
なんと豊かな優しい心、平和な心であろうか。この方の中に神が生まれてくださり、この方も助かり、ご両親も助かっておられる。人間とは、神の氏子とはなんと素晴らしいものであろうか。
私どもは、あらためて「世界の平和と人類の助かり」のためにいただいている神心をもって、手元のところから何ができるかを求め、共に助かる生き方をより確かなものとしていきたいものである。