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信心と財について─お下がりとしての財

金光教報 『天地』5月号 巻頭言

 娘が小学校入学の折、隣接教会の先生より、「うちの娘が六年間使ったランドセルだけど、良かったら使って下さい」と頂いたことがあった。親としては新しいランドセルを買ってあげたかったが、せっかくのお心遣いなので、娘に「このランドセル使わせてもらったら」とすすめると、「いいよ」と言って6年間そのランドセルを背負って小学校へ通わせていただいた。他の子は皆ピカピカのランドセルなので、毎朝、娘を送り出す時、何かしら、心苦しくもあり、ありがたくもあり、嬉しくもあった。その娘が結婚をして昨年に女の子が誕生した。女の子を頂いて、ふと、古いランドセルを背負って通った小学生時代のことを思い出して話をしてくれた。「私、あのランドセルで小学校へ行くのがいやだったし、恥ずかしかった。友達からもいろいろ言われた。でも、下さった人や、お父さんやお母さんの思いを考え、6年間、大切に使わせていただいた」と、思い出を語ってくれた。
今更ながらわが子が、親の思いや人の思いを一生懸命に受けとめていたことを思うと、ありがたく、あらためて神様にお礼申し上げたことであった。
 お下がりのランドセルと、お下がりの財を同じに語ることはどうかと思うが、下さった相手である神様と人とが願っているところを、どう頂くかということについては同じではなかろうか。
 それでは本教の財、お下がりというものはどういうものであろうか。
 本教は、天地金乃神様が、神と人とあいよかけよで立ち行くあり方を世界に実現するため、教祖生神金光大神様に取次を頼まれ、教祖様がこれを受けられたことに始まる。
 生神金光大神取次とは、人の願いを神様に祈り、神様の願いを人に伝えて、神と人とを結び、神と人と共に助かるとの神様の願いを実現していくはたらきである。この取次を願い、頂くことをとおして、天地の恵みとはたらきのなかで生かされて生きていることに感謝する時や、人生におけるさまざまな問題の解決を求め、そこからの立ち行き、助かりをお願いする時、また、そのおかげを頂いて、お礼をさせていただく時、さらに、神様の願いを実現するために特別にお役に立ちたいと願う時など、神様に対するさまざまな思いから自発的にお供えをさせていただく。そのお供えは、お結界をとおして、取次者によってご神前に供えられ、お供えをした人の真心が神様に取次がれる。
 このように「取次」の働きによって生み出された財が本教の財である。そして、神様に供えられた財を、神様からのお下がりとして頂いて、神様の願いを実現するために、すなわち、難儀な氏子が生神金光大神取次を願い、頂くことによって助かるために、その役割を果たすべきものであろう。財が信仰の発露であるならば、また、そのお下がりの運用も信仰の発露にならなければならない。このことは、教団にあっても、教会にあっても同様であろう。


 ある先師は次のように語っている。
 師は、小倉教会に毎月参拝されるのに、筑豊線経由で行っておられました。昭和の初めごろ、私は飯塚駅から同乗させていただきました。私が、「甘木からは、二日市へ出て、鹿児島本線に乗るほうが汽車もよく、長いトンネルもなく、乗り換えもなく、便利ではありませんか」と申しあげますと、「料金が二銭違う」と言われます。私は、親先生は愛国者だと思っていましたので、「鉄道省の利益になって、お国のためになるのではありませんか」と申しますと、「それは間接の御用じゃ。お道の御用は直接の御用、一銭でも二銭でも、お道の御用はお道の者がさせていただかねばならぬ」と仰せられました。
 別の先師は、次のように語っている。
 「私は最近おかげを頂いて、本部参拝しても、乗車券も宿料も、信者が支払ってくれます」と申しましたところ、師匠は、「なにっ!不見識な。それがおかげか。参拝のできぬ信者を、旅費を出して、連れていくようになったというのなら、おかげともいえようが…」とおっしゃいます。先師が重ねて「信者が真から御用と思うてすることを、受けてはなりませんか」と問いました。すると師匠は、「御用にというのなら、ご神前にお供えして、お取次させていただいた上のことならば、信者もおかげになるが、いきなり旅費のおかげをいただいたのでは、教師も自分の旅費を信者に出させ、信者も先生にしてやったというような慢心が起きて、両方のおかげにならぬ」と戒められました。

 心して「難儀な氏子を取次ぎ助けてやってくれ」との願いを込めて、神様より頂いたお下がりの使い道の上におかげを頂いてまいりたい。

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