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実践重ね身に付く信心【金光新聞】

「そのうち分かる」

昭和24年、私はこの世に生を受けました。この年はまた、父が教会布教を始めた年でもありました。
 やがて、私が中学生になると、父は信徒の葬儀や地鎮祭、宅祭などに私を連れていくようになりました。私は周りの友達が遊びに出掛ける姿を横目で見ながら、言われるままに父についていきました。でも、出先で何かを教えられたり指示されるようなことはありませんでした。
 ある時、「どうして一緒に行かなければいけないのか」と尋ねました。すると父は「そのうち分かる」と言うだけで、それ以上に何かを語ることはありませんでした。

 父は大正9年生まれで、10代半ばに結核を患ったことから、親に連れられて金光教の教会に参拝するようになりました。
 ある時、教会の先生から「健康な体にしてやるが、そのためには次のことをするように」と言われたのです。それは、病院に入院するつもりで教会修行に入ること、理屈を言わず神様一筋に一心になること、神様に本気でお任せすること、そして命懸けで大祓詞(おおはらいのことば/祝詞〈のりと〉)を唱えることの4つでした。それを素直に聞き入れ、教会に入っていろいろと教えを聞き、掃除に励んだり、時にしかられながらも修行の日々を過ごす中で、いつしか病気はすっかり治っていました。父の信心の土台は、そうした信心の師匠との徒弟関係を通して培われていったのです。

父が生涯をかけて教えてくれたこと

 父は、20代後半で教会布教を志すことになりました。このころ、誰から聞いたのか、父の元には「神様にお願いしてください」と人が訪ねてくるようになり、父はその都度5キロほど離れた師匠の教会に、自転車でそのお願いをしにいくようになっていました。そうして、おかげを受ける人が出てくるにつれて、訪ねてくる人の数も増えていきました。こうした状況が生まれてきたことから、父は師匠の勧めや近所の人たちの願いを受けて金光教学院(金光教の教師養成機関)に入り、お道の教師となって、自宅を教会広前として布教を始めることになったのです。
 その一方で、今まで師匠を通して祈ってもらってきた生活から、自分自身が神様と向き合って祈り、導く立場となりました。父は、師匠から教えられてきた「神様一筋、神様に本気でお任せする命懸けの祈り」が、果たして自分にどこまでできるのか、不安だったそうです。
 そうした布教前後のことを、後年、父は私に語って聞かせてくれました。でも、その時はまだ、父が何を言わんとしていたのか、当時の私にはよく分かりませんでした。

 やがて、私自身も金光教学院に入り、この道の教師となって、だんだんと父が言わんとしたことが分かり始めました。かつて父が語った、「そのうち分かる」という言葉の奥には、信心は理屈や学習ではなく、実践を重ねる中で身に付いてくるという信心求道の姿勢があったに違いありません。
 私は父を信心の師とする一方で、先輩教師諸氏などから信心の教導を頂いたり、教義についての勉強会などを通して、金光教の神様や取次、また教会の働きなどについて学ばせてもらい、信心の糧にしてきました。
 平成16年、父は永眠しました。その生涯を懸けて父は私に、「自らに求め会得する信心」を伝え、実践へと導いてくれたのです。

※このお話は実話をもとに執筆されたものですが、登場人物は仮名を原則としています

(金光新聞「心に届く信心真話」2014年12月21日号掲載)

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