春季霊祭を迎えて
金光教報 『天地』3月号 巻頭言
3月を迎え、本部広前をはじめ各教会では春季霊祭が奉仕される。
春秋の彼岸の時期やお盆になると、多くの人は亡くなられた人の在りし日のみ姿を思い浮かべ、その思い出に浸り懐かしみ、その人が在ませば、今を生きる私をそしてこの状況をどう思うであろうかなどと思いを巡らせる。
その一方で、病気災難や問題などが起きてくると、その原因を先祖への供養ができていないことや親不孝を重ねてきたことに起因するのではないかと思い、そのために心を迷わす人たちもある。
亡くなった親や先祖や関わりある霊(みたま)様を常に思い浮かべることはないにしても、折りにふれ誰もが心のどこかに見えなくなった存在を意識するものである。
この道で大切に営まれてきた霊祭は、亡くなった方に思いを寄せることはもちろん、教祖様の「木のもとへ肥をやれば、枝振りまで栄える。ご先祖や親を大切にすれば繁盛させてくださる」「ご信心しておくがよい。ご信心してあなたがおかげを受けると、あなただけではない、後々の孫、ひ孫の末の末までがおかげを受けるし、また、ご祖先ご祖先の精霊御霊(しょうりょうみたま)までが、あなたがご信心して、おかげを受けてくれるからと、安心してお浮かびなさる。あなたの受けたおかげは、いつまでも離れずについてゆくものじゃから、できるだけこの世でご信心して、おかげのもとを作っておくがよい」とのみ教えのごとく、子孫の者が信心することで、親先祖の霊が立ち行くことになること、さらにはそうした歩みが後々のおかげのもとになるとの思いをあらたにさせてもらうものである。霊様との関わりは、こちらが意識するしないにかかわらず、決して離れない、まさに相即不離な関係であり、そのことからいえば「霊祭」とは霊様のためにお仕えさせていただくものであると共に、今を生きる者が助かり立ち行くためにも大切にせねばならない営みであるともいえる。
ところが日常生活では、目の前の出来事に追われ、今を生きることに精一杯となってしまい、先祖と繋がる自らのいのちであることや目には見えないが確かな霊様のみ働きに思いがいかないことになってしまう。そして、いつのまにかその大切な霊祭さえも忙しさに追われて忘れたり、参拝が遠ざかることさえもある。
ある先師は、霊祭の忘れ得ない思い出として次のような話を残している。
霊祭を前に、一人の婦人が参拝して、「まことに勝手なことで申し訳ありませんが、霊祭当日は都合が悪く参拝できません」とお届けをされたので、それもいたしかたないことであると聞き受けて神様、霊様に取次がれたという。
しかし、霊祭当日、祭典を済ませてお結界に座ると、参拝できないと言っていた婦人が参っている。そこで、呼び寄せて訳を尋ねると、次のような出来事を話したという。
「実は、今朝夢を見たのです。その夢というのは、私の亡き父が枕元に立って『今日、教会の霊祭で親先生が一人ずつ丁寧にお呼び出しをされた。同じようにお呼び出しを受けられた方達は、参拝してきた子や孫の姿を見ながら、大層嬉しそうにされていた。はたして私の家の番が来て、お呼び出しいただくままに出てきたものの、広前には誰一人として家族の者がいなかった。本当に寂しく、また悲しい思いで霊祭をお仕えいただいたが、これからはどうぞ参ってくれい』と涙ながらに語りましたので、本当に申し訳なくおわびをさせてもらううちに、目が覚めました。夢にしてはあまりにも現実的であり、そのまま目が冴えて眠ることができませんでした。それで、何とか都合を繰り合わせて参拝のおかげを頂いたということであります」。
先師は、あらためて霊神となられても子孫を思い、その助かり立ち行きのために信心の継承をと願う親心に深く感じ入り、霊祭を迎えるといつもこの話をされたという。
また、ある先師は、「私にはお霊様がわかりません」という問いかけに対して、 「貴方の今日まで頂いたおかげを片方に、もう一方に自分が今までしたことを天秤にかけてごらんなさい。
とても釣り合わない。釣りあわぬは不縁の元といいますが、あれは夫婦だけではない。一万円の品物を、私だけ百円に、一円にというても無理な話です。一万円の物には一万円出さないといけない。世の中の物は皆つり合っているのです。貴方の場合、おかげを受けるばかりで自分のしている事ではとても足りない。それを足して下さっているのが、生神金光大神様のお取次であり、親先祖の働きです」と答えられたという。
先師たちは、目には見えないけれども、今おかげを頂いていることを陰で支えてくださる親先祖のみ働きが確かにあることを、そして子孫の助かり立ち行きを願う霊のみ思いを、こうした自らの信心の歩みや体験をとおして実感したことを語り伝えてくだされている。
霊祭を迎えるにあたり、あらためて霊様のお働きを実感し御礼を申し上げると共に、霊様が私たちにどのような思い願いをかけておられるのかを思い新たに深め、霊様の願いを今に生かし現し、共に生きるというありようを求めてまいりたい。