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社会との接点に再生のカギ【金光新聞】

宗教は必要とされているのか

 近年、「直葬」のように宗教者が介在しない葬儀が増加しているといわれる。宗教の捉えられ方が変化してきている現代社会にあって、宗教者が果たすべき役割をより明確にしていく必要があるといえよう。

 昨春、日経BP社から刺激的な題の本が世に出た。その名も『寺院消滅─失われる「地方」と「宗教」』で、その内容は衝撃的だ。筆者の鵜飼秀徳(うかいひでのり)氏は「日経ビジネス」の記者だが、浄土宗のお寺の副住職も務める。
 現在、仏教寺院は全国に約7万7千ある。約5万3千あるコンビニ店よりその数ははるかに多いのだが、この本は、「われわれはコンビニほど寺を必要としているだろうか」と、問い掛ける。
 地方では高齢化と過疎化が急速に進み、都会では、葬儀で通夜や告別式をせずに火葬だけで済ます「直葬」が増加している。地方では檀家(だんか)がお寺を経済的に支えられなくなり、都会では読経なし(僧侶抜き)の葬儀が当たり前になりつつあるのだ。

 では、本当にお寺の需要は無くなるのだろうか。東日本大震災で多くの犠牲者が出た東北の被災地では、死者を弔い遺族に安寧をもたらす宗教者、とりわけ僧侶の役割の大切さが、あらためて認識されたという。どんなに世俗化が進み、生活が合理化されても、死者と生者を共に安心に導けるのは、宗教者をおいて他にはない。
 だとすれば、なぜ寺院が「消滅」しつつあるのか。鵜飼氏は、高齢化や過疎化といった社会構造の変化に対応できずに衰退するケースはもちろんだが、僧侶が「寺」という「安全地帯」にとどまって、自分磨きを怠っていることも、その一因にあると指摘する。
 もちろん、こうした事情はお寺だけではない。日本の多くの宗教は、その深刻さに違いはあっても、同様の危機的な状況に直面しながらも、積極的な打開策を打ち出せずにいる。

 そうした中、効果的な策としては、信仰の継承が考えられる。だが、戦後「信教の自由」が国民の権利として確立され、個人が自由に信仰を選べると同時に、“選ばない自由”も手に入れた。その結果、「家の宗教」は「個人の宗教」へと転換し、「家内そろっての信心」のハードルはますます高くなるが、老若男女、全ての人に魅力的に映る宗教はそうはない。
 むしろ、個々の宗教が自分のところの信者だけではなく、地域や社会に広く目を向け、全ての人に開かれた「公共の場」として、住民の多様なニーズに応えていくことが、より大切ではなかろうか。鵜飼氏は、従来の檀家制度に頼らずに地域を守ろうと、独自の取り組みを展開する僧侶たちを紹介しながら、「社会との接点づくり」が仏教再生の鍵を握ると指摘するが、それは仏教だけではない。

 近年、宗教界ではこうした「公共性」が大きなテーマとなっている。東日本大震災以来、宗教団体によるボランティア活動が注目を集めることが多くなったが、さらに、そうした取り組みは、日本という枠を超え、現代世界における宗教の社会的意義への問いにまでつながっている。
 もっとも、真に「世のお役に立つ」宗教とはどのような宗教なのかは、一人一人の信心の在り方にかかっている。本教がグローバル社会において、さらに展開していけるかどうかも含めて。

宮本要太郎(関西大学文学部教授)
(「フラッシュナウ」金光新聞 2016年2月21日号掲載)

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