【巻頭言】御霊の世界
本年6月に、関西福祉大学で「生と死の教育」という講義を学生さんとともに受けさせていただきました。この講義は、同大学社会福祉学部の教授であり、哲学者の中村剛先生が講義をされ、90分の講義のうち、最後の20分は同大学の非常勤講師である金光教教師が、本教の信心に基づく解説をされます。この時の講義のテーマは「死」でした。
講義では、死にも人称性があり、一人称の死は自分自身の死、二人称の死は家族など大切な人の死、三人称の死は、人類が誕生し今日に至るまでに亡くなった方々の死を指し、一人称の死は、誰も経験することができず、二人称の死は悲しみを伴うものとのことでした。
講義の最後に中村先生は、「死後の世界については、大別すれば次の二つが考えられる。一つは死後という言葉の通り、死んだ後の世界が存在すると考える立場。もう一つは、そのようなものが人間には思考できないという立場。私たちは、時間という概念のある世界での思考の延長で『死後』ということを考えてしまう。しかし死は、時間という概念がある世界の消滅だと考えるならば、死後の世界という概念自体が成り立たなくなる。哲学の立場から考えるならば、『死後は存在する、あるいは、しない』と答えるのではなく、『思考できない』と答えるべきでしょう」と述べられました。
教祖様のみ教えに、「みな、神の分け御霊を授けてもらい、肉体を与えてもらって、この世へ生まれて来ているのである」、そして、「死ぬというのは、みな神のもとへ帰るのである。魂は生き通しであるが、体は死ぬ。体は地から生じて、もとの地に帰るが、魂は天から授けられて、また天へ帰るのである。死ぬというのは、魂と体とが分かれることである」とあるように、私たち金光教の信心をさせていただいている者は、哲学では「思考できない」とされる御霊の世界を信じて生きています。この「信じる」というところに、御霊様への御礼の心が生まれてきます。
秋分の日を迎える9月、本部広前をはじめ各地の教会で秋季霊祭が仕えられます。御霊となった後も、子孫をはじめ縁ある人々の助かりと立ち行きを神様に願い、日夜守り導いてくださるお働きに御礼を申しつつ、御霊様として、ここからいっそうにお働きくださるよう、祈りを込めさせていただきたいと存じます。
総務部長 和田一真