「信心の育ち」を願っての人材育成
金光教報 8月号 巻頭言
私たちは、しばしば「手段と目的」を間違えることがあります。今年度の教団の願いについて説明する中で、教務総長が「(信心の問いの)掘り下げが不十分なままでは、『手段』であったはずの研修が、いつの間にか『目的』になってしまいかねません」と述べているように、手段を実行することが目的になると、本来の目的を見失います。
私も以前から気を付けてきました。地方教務の御用では、一つの行事が済むと「やれやれ」という気持ちになり一段落付けてしまいがちなので、次年度につなげたり複数年にわたるサイクルをつくったりと、「手段」である行事自体が目的化しないよう心掛けていました。
教会においては、記念祭がイベント的な行事になってしまった過去を反省して、信奉者が日常的に信心の稽古をすることを奉迎の中心にしました。記念祭をお迎えするということは、一人ひとりの信心が育ち、日常生活に信心が現れるようになることが目的だと思うのですが、盛儀を願うあまりに間違いやすいのです。もちろん、イベント的な取り組みであっても、信徒間の結束や教会への愛着が深まるという横軸のおかげもあり、悪い面ばかりではないと思います。しかし、私の場合は、信奉者それぞれが神様との縦軸を確かにすることができていたのか、そこでの取次が神様に心を向けたものになっていたのかと改まらざるを得ないものがありました。
そこで、百日毎に、神様がお喜びくださる信心実践を信徒たちで練り出して、十期、千日間にわたって生活の中で実践していくこととしました。身の周りの物事にお礼を言う稽古から始めて、「すべてをお差し向けと受ける」といった方向へとだんだんに広げ、積み重ねていきました。この取り組みは、記念祭を終えた今も続いています。また、いくつもの教会が、この取り組みを参考にしてくださって、同じように取り組んでおられることもありがたく思います。
その中で、はじめは気付きませんでしたが、その実践が神人物語を編む営みだったということが分からされてきました。どうすれば神様がお喜びになられるのだろうかと問うていくうちに、おのずと神様を主語にして生活する稽古ができていったのです。
さて、本部教庁布教部は、学院、修徳殿を所管し、教師研修や、輔教など信奉者の人材育成を担っています。この「人材育成」という言葉も、「手段と目的」を間違えやすいものだと思います。「信心の育ち」を神様に喜んでもらえる氏子になることが目的であって、組織の維持や運営に長けた要員を育成することではありません。
本部においても教会においても、日常生活の中で神様と自分との間柄を絶えず見つめ直す稽古ができるように工夫して、それぞれに神人の道が現れるような「信心の育ち」ができていくことを目的に据えてまいりたいと願っています。