「神の光を身に受けて」
金光教報 6月号 巻頭言
金光教でおかげを頂き、信心を続けると、ものの見方・考え方が変わる。それは、神様の「まなざし」を感じ始めるからだ。そしてやがて、その「まなざし」を受け止める「もう一人の私」が心の中に生まれ、その「もう一人の私」との対話が始まり、神様との対話に転ずる。それを可能にする取次は、「四時常に開かれて」いる。この取次をバックボーンに踏み出す未知なる「神人の道」への一歩は、自分と周りを魅了する。そして、変わりゆく世と共に動きつつ生まれ変わり続ける金光教の信仰世界は、とどまるところを知らない。
新型コロナのまん延で広がる不安、恐れ、いら立ち。それに加えて、連日報道されているウクライナでの惨状への憤り、怒り。そんな今、神様に向ける私たちの心に広がるのは「神の嘆き」だ。そして、人間の愚行を神様にお詫び申し上げるとき、「天が下に他人ということはなきものぞ」という教祖様の教えとともに、「どんな理由であっても、人が人を殺すことは、あってはならない」と強く思わせられる。
9・11(アメリカ同時多発テロ)の時もそうだった。信じられない光景がテレビに映し出され、しばしぼうぜんとしていた。事態を理解できなかったのだ。そしてその映像が現実のものだと知り、お広前に端座した。すると地の底から湧き上がる神様の悲しみが心に迫り、平伏したまま動けなくなった。私は、アメリカに金光教として存在しておりながら、このようなことになり申し訳ないという思いで、人間による間違いを人間として神様にお詫び申し上げた。
あれから21年、いまだに繰り返される人間の愚行と、明らかに情報操作によるものと思われる正当性を主張する報道に接するたびに、「もうやめて!」と叫びたくなる。でもこんな時だからこそ、なおさら情報に振り回されることなく、神様に心を寄せて、「世界の平和と人類の助かり」を祈る私たちでありたい。
英語拝詞集にプレーヤー・フォー・ピースという拝詞がある。9・11以降に作成された平和への祈りだ。その拝詞の中に、「世界の平和、それは心の平和から始まる」という文言がある。金光教を信心する者として、暗闇の難儀極まりない中にあって、静かに祈り、神様の光を感じる人として存在したい。そして「金光とは金光ると書き。明い方はだれでも見ようが。おいおいには明い方へ人が来る」と教祖様が頂かれたお知らせの通り、神様からの光を身いっぱいに受け、照らされて、闇の中にほのかに浮かび上がる私たちでありたいと願ってやまない。