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不安より神様にお礼を【金光新聞】

コロナウイルスがきっかけで

 今年の3月、全国各地で新型コロナウイルスの感染者が急激に増え、全国的に学校や幼稚園が休校、休園になった頃のことです。
 私が勤める保育園は休園せず、感染予防策として、手洗い、換気、消毒を徹底し、保育士はマスクとゴーグル(保護眼鏡)を着用することになりました。日頃、眼鏡を掛けていない私にとって、ゴーグル着用は大きなストレスでした。晴れた日に園庭で園児たちと遊んでいると汗が流れます。園児を抱っこすると、ゴーグルやマスクに手を伸ばしてきます。子どもらしい当然の反応なのですが、「こんな状況では、いつ感染するか分からない」という不安ばかりの時期でした。

 ある冷えた朝、マスクから漏れた息でゴーグルが曇ったことがありました。冬場になると、眼鏡を掛けている人が「息で眼鏡が曇って困る」と言っていたのを思い出しました。その時は、「曇れば拭けばいいのに」と思い、裸眼で過ごせることへの喜びを感じることができなかったのですが、コロナウイルスがきっかけで、日常の中に埋もれている小さな喜びに気付くことができるようになりました。
 また、私は、保育園が休園にならなかったことを不足に思っていましたが、保育園で子どもたちを預かることで、保護者の方たちが働くことができ、生活が成り立っていく、そのお手伝いをしているのだと思えるようになりました。とはいえ、不安がなくなるわけではなく、不安と小さな喜びが混ざり合いながらの日々でした。

不安な気持ちが

 ところが、4月に緊急事態宣言が出された影響で、日頃お参りする教会の祭典に参拝できなくなりました。すると、再び不安な気持ちが大きくなってきたのです。私は、「神様にどのような気持ちで向かえばいいのだろう」という思いとともに、「神様は、この状況をどのように感じておられるのだろう」と考えるようになりました。
 神様への祈りは「おわび・お礼・お願い」の三つが大切だと教えられています。神様に対しての知らず知らずのご無礼をおわびしたり、このような大変な状況でも命を頂いていることへのお礼を申し上げたり、感染症の終息をお願いしてみましたが、どうしても心が落ち着かないのです。
 それでも、私は元気に保育園に通い、いつも私とらわれながら、形だけ神様に向かっている私でも、神様はいつも守ってくださっているのだ」と思えたのです。ありがたい気持ちでいっぱいになりました。
 そして、「神様にお礼をさせてもらおう。神様に喜んでもらえる私にならせてもらおう」という気持ちになりました。そのように思いが定まると、たとえ感染したとしても、全ては神様に守られている中でのことなのだから、きっとおかげにつながっていくと思え、不安がなくなりました。

 それからは、保育園での仕事も神様へのお礼として取り組めるようになり、子どもたちにも以前のように、愛情を持って接することができるようになりました。
 神様に心が向いたことで、不安な思いよりも神様への感謝の思いが強くなりました。これからも神様へのお礼の心を忘れず、新しい生活スタイルを模索する中で、先を楽しみに過ごしていきたいと思います。
※このお話は実話をもとに執筆されたものですが、登場人物は仮名を原則としています

「心に届く信心真話」2020年12月20日号掲載

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タグ: 文字, 金光新聞, 信心真話,