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当たり前を守り支えるもの

金光教報 10月号 巻頭言

 教祖直信の一人、近藤藤守師は、教祖様のご平生を次のように語られている。
 「実に教祖の神は、人の全く気づかない事にも、常に神様のご慈愛が輝き渡るのに気づかれ、それを有り難しと感じ入られたので、この御心はついに天地の真の神に通じて、天地の真の道が遺憾なく現れたのであると、信じ奉る次第である」
 同じものを見ても、そこに神様のみ働き、ご慈愛を看取せられる教祖様に接した時の近藤師の実感であろう。教祖様のご理解には、まさにそのことを感じ取れる数々のみ教えがある。
 「まめな人は、わが身はわが自由であると言うておる人もあるが、わが身がわが自由にならんことがある。夜寝た時、おぼえず知らず息をだれがさしてくださるか。子供を一人寝さしておくのに、さしつかえはない。これ、わが体は天地の親神のお守りくださるので自由に働きができるのである。真にありがたしと思わねばならんてやなあ」
 こうしたご理解を頂いて、私たちの生活をあらためて振り返ってみると、当たり前と思われる日常が、神様のお恵みを頂いてのことであると気付かせられる。教祖様の視座は常に「自分のつらかった時のことと、おかげを受けてありがたい時のこと」、この二つを見据えながら、そこに神様のありがたさを感じ取られていたのであろう。
 そして、教祖様に始まる生神金光大神取次の業(ぎょう)を伝承される歴代金光様も、教祖様のご信心、親様のご信心のあられようを求め続けられ、より私たちに理解しやすくお伝えてくだされている。
 四代金光様のお歌に次のようなものがある。
 「あたりまへのことがいちばん不思議かと改めてこころ驚き思ふ」
 誰もが当たり前と感じることも、その当たり前を守り支えている働きがあることを四代金光様の眼は見ておられる。それは、天地のお働きのように、日々変わらぬ本部広前のご神勤をお進めくださっているからこそ、見えてくる世界なのかもしれない。 私たちは思いどおりにならないと、ともすれば現状を憂い、嘆き、不足が口をついて出てしまうことがある。それは、現状のみに眼を奪われ、心をとらわれているからであろう。思いどおりにならない現状は、神様からの私へのメッセージであると、神様に心を向ける時、それまで見えていなかった世界が見えてくる。
 「ここまでは出来たとよろこぶべきことをこれしか出来ぬといひてなげくか」
 生神金光大神大祭を迎え、あらためて教祖様、歴代金光様が示された、この道の信心の助かりの姿を求め現していきたいものである。

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