二つの「染」
金光教報 8月号 巻頭言
昨年来、新型コロナ感染症が甚大な影響を及ぼしており、金光教宣言の「すべてのいのちを認め、尊び」の一句が試される事態でもある。ちょうど10年前の2011年には、東日本大震災と福島原発事故によって放射能汚染が重大問題となり、今に至っている。
汚染と感染。10年の間を置いて、「染」という文字で表される事態が起き、両者は外から付着するイメージで共通し、人の生き方や心の如何(いかん)にかかわらぬ迫りとなる点でも共通する。感染の恐れと感染者への忌避(きひ)感にも垣間見えるように、かつての不浄汚れの禁忌が、形を変えて現れたかのようである。
本教でかつて唱えていた「大祓詞(おおはらいのことば)」の天津罪(あまつつみ)・国津罪(くにつつみ)は、人が犯す悪事のみならず、病気や災害など人が被る厄難を含んでいた。またその「祓い」は、祓戸大神(はらえどのおおかみ)たちが、吹き払ったり、さすらいながら振り落としたりするものであり、人間の悔い改めを要しない。
それに対して、「汚れ不浄を言うなよう。一皮の内には、みな包んでおるのじゃからのう。手足、体を洗うより、腹の内を洗うことをせよ」とのご理解では、禁忌の厳守とも、合理性に基づいた禁忌の否定とも異なる視線が示されているように思われる。
教祖伝をひもとくと、不浄汚れは安政6年の立教から数年の間に、信心の上で乗り越えられたと解釈されてきた。しかし、「金光大神暦注略年譜(れきりゃくねんぷ)」では年譜に先立って、不浄について確認する記述があり、未解決な問題に向かう教祖様の息遣いを聞く思いがする。
その意味するところは定かでなく、探究の余地を残している。ただし先のご理解とも相まって、避けがたく人間の意識や行為を制約するものでありながら、同時に人間の意識や行為から生まれ続ける問題としても抱えられているのではないだろうか。
今日の金光教は、天地の間に住むことを許され、天地の恵みを受けて生かされる自覚に立ち、天地の道理に基づく生き方を求めている。しかしどこかで逆に、人間がいて、社会を作って生き、その周りに天地があるという感覚に染まっているのではないか、という危惧も湧く。
翻って、ウイルスは命を脅かす病因である一方、胎児を守るなど協働の関係にもあるという。また、かつて猛毒だった酸素が生存に必須なものとなっていることなど、生命の歴史において、どれだけのことがなされてきて今があるのか。また放射能との将来はと、大きな眼での捉え直しが促されている。
天地に生かされる「いのち」(生類)にどのような地平が開けるのか、そこからどのような信心の問いが差し向けられるのか、容易ならぬ課題であり、同時に深い励ましを蔵している。