安心の道を信じ貫く「一心」【金光新聞】
神様がつけてくださった道を歩む
人にはそれぞれに生きてきた道がある。振り返った時に、その道がどのように見えるのか、受け止め方もさまざまだろう。私は、どんな時も神様が、一人一人を助かりへと導く「安心の道」をつけてくださっていることを信じている。
「道はもうついとりましょうが」
金光教の信徒だった私は、金光教教師である夫との結婚を機に仕事を退職し、教会で生活するようになった。その14年後の平成2年、私も教師の資格を得るため、金光教学院(教師養成機関)特設科(現在の特科)へ入学するという話が進んでいた。しかし、「教師のご用が私に務まるはずがない。なんとか逃げられないだろうか」というのが私の本心だった。
その思いを家族に打ち明けることもできず、悩んだ私は同年8月、ご本部参拝の折に、思い切って四代金光様が座られているお結界へと向かった。「とにかく胸の中にある不安や心配を分かって頂きたい」と必死だったのだ。
私の話をじっと聴いてくださった金光様は、「人はああじゃろうか、こうじゃろうかと先の心配をしていろいろ考えるけえなあ。それを『一心』にと思って勘違いをする。道はもうついとりましょうが。おかげを頂きましょう」と、お言葉を下さった。
頭を下げて聞いていた私はその時、何か大きくて柔らかく、温かいものに包まれているような不思議な感覚の中にいた。と同時に、過去のつらく苦しかった出来事までもが、まったく違った見え方から映し出され、むしろこれからのご用にとって必要な、神様が通らせてくださったありがたい経験だったのだ、とさえ思えた。
それまで私は、自分の人生は、自分で選択し、自ら歩んできたように思っていた。けれどそうではなく、すでに神様が、私が助かっていけるように道をつけてくださっていたことに、その瞬間、気付かされたのだ。今振り返ると、あの時の不思議な感覚は、お取次の働きによって、神様や神縁(ゆかり)ある方々が掛けてくださっている願いと祈りを、まさに体で受け、感じたということではなかったかと思わされる。
迷いがなくなった私は、平成3年2月に学院特設科へ入学した。その前月の1月10日、四代金光様はご帰幽になられ、2月17日に執行された教葬(本葬)では、学院生としてご用に当たらせて頂くことができた。
「生活の中でこそ神様に心向け」
「道はもうついとりましょうが」とのお言葉から30年余り。その間、さまざまな問題に直面することもあったが、そのたびに、「どうぞ道を間違えませんようお導きください」と祈りながら、信心の稽古として向き合わせて頂き、こちらの願い以上のおかげを頂いたことは、「何があっても大丈夫」という大きな安心が生まれる基になった。
難儀に出合った時はもちろんだが、神様に心を向ける稽古は日常生活の中でこそ、大切になってくる。例えば、電気がつけっぱなしになっていた時、犯人捜しをするのではなく、「神様から電気を消すご用に使って頂けた」と、お礼ができるようになれば、そこからまた見える世界があり、お礼と喜
びが大きく広がっていくだろう。
私がいる今、ここは、「神様が私を助けようと整えてくださった環境」と頂き、その今月今日の中で、喜びを見つける達人とならせて頂きたい。そして、神様は、一人一人が助かり立ち行く「安心の道」を必ずや、つけてくださっていると信じ貫くこと。そのことこそが、四代金光様が伝えようとなされた「一心」ではないかと思う。
求めれば求めるほどに厳しいお試し(試練)もあるが、「信心が篤くなるほどお試しがある。お試しがあるのはおかげである」との教祖様の教えをつえに、賜った今日の命を明(あか)き方へと運びたいと願っている。