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生活の中でお取次を頂く

金光教報 「天地」7月号 巻頭言

 このお道は「生活即信心、信心即生活」と言われ、信心は生活の中でなされるものであり、生活そのものが信心になっていくことが大切であると言われてきました。
 教祖様は、「神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ」「生きている間は修行中じゃ」と教えられ、起こってくる難儀や問題は、自らの信心を稽古する材料であり、その問題をとおして信心を進めることで、神様のお心に気付くことができ、最終的には、人を助けて神になることが信心の目的であることを示されました。
 今、新型コロナウイルス感染症の世界的大流行により、多くの方が亡くなられ、苦しんでおられます。また、経済的にも、社会生活の上にも、困難な状況が生まれてきています。そして、この問題は、私たち信奉者にも大きな問いを投げかけています。
 これまで私たち信奉者は、教会にお参りしてお取次を頂く、ご祈念をする、祭典に参拝する、教会の御用をする、といったことを信心としてきたように思います。
 しかし、新型コロナにより、外出自粛を要請され、公共の交通機関利用も制限され、普段は当たり前だった定時のご祈念や月例祭の参拝なども、三密(密閉、密集、密接)を避けることから、ままならない状況となりました。
 そのことで、これまで当たり前とされてきたことが、当たり前ではなく、おかげを頂いてできてきたことだと気付かされると同時に、そこから見えてくるものがあるように思うのです。
 教祖様は、信心は教会(教祖広前)に参るだけでなく、生活の中で行うものであることを、多くの教えで伝えておられます。つまり、今の自分が置かれている環境の中でも信心ができる、お取次を頂くことができるということでしょう。
 お取次を頂くということについて、芸備教会の高橋茂久平師は、「教会のお結界を幻まぼろしに描いて、お取次を頂けばいい」と言われました。それは、茂久平師の心に、佐藤範雄師、佐藤照師の日々のお姿とお言葉が刻まれていたからでしょう。
 教祖様の時代、坂根利三郎氏が夜遅く参ってきて、「夜十二時が過ぎてお参りするのは私くらいなものですから、外へ出て月でもご覧になると、命の洗濯になります」と言うと、教祖様は「私がここを動けば、世の氏子がけが過ちをするかも知れない。どうか、世の氏子に、けが過ちのないように、本当のおかげが受けられるようにと願っていると、私はここを動く暇がない」と言われたということです。この伝えは、取次者のあるべき姿、お結界に座りきる姿として語られることが多いですが、さらに大切なのは、氏子が本当のおかげを受けられるよう、常に神様に取次いでおられる教祖様のご姿勢を伝えていることだと思います。
 ですから、信奉者はお広前に足を運び、先生にしっかりお届けをさせてもらう。そして、参拝できない時には、普段の生活の中で、祈ってくださっている先生の姿を心に浮かべ、先生から頂いた教えを思い返しながら信心を進めるのです。そこに生神金光大神取次の働きが生まれてくると思います。
 今や教会に足を運べなくても、電話やメールでお取次を頂くことができる恵まれた時代です。私はこの機会に、あらためて生活の中でお取次を頂くにはどうしたらいいかを考え、取り組ませていただきたいと思っています。

高橋寛志・学院長

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タグ: 文字, 金光教報, 巻頭言,