「先」を願い「今」を見つける【金光新聞】
「弔辞」と「予祝」で未来を思い描く試み
金光教北九州教区では、平成27年から4年間にわたり、毎年2、3回、青壮年教師研修会が開催され、私は継続して参加することができた。その学びから、神様に向かう中で生まれる「先を楽しむ大きな願い・未来への祈り」を起点に、今すべきことを見つける大切さを思っている。
同研修会には、指南役の先輩教師がいて、 「社会問題」「教会の現状と課題」「修行」「立教神伝」などテーマを設定し、それを基に参加した教師同士が、それぞれの立場から主体的に互いの意見を交わし、思いを引き出し合った。
最終年度は、「未来へ向けて大きな願いを立てる」というテーマだった。日々、目の前のことに精いっぱいで、「これから先、どうありたいか」という願いが立てにくい現状にあって、今一度、大胆に未来を思い描いてみるという研修の狙いがあった。具体的には参加教師おのおのが「自分の弔辞を自分で執筆する」「教祖150年を予祝する」ことに事前に取り組み、発表するという内容だ。
故人の生き方をたたえ、しのぶ「弔辞」を自分に宛てて書くことを通して、これから最期まで、自分はこう生きたいと願いを立てる。そして「予祝」とは、まだ起こっていない未来の出来事を先取りして、「こうであった。ありがたい!」と予(あらかじ)め祝って喜ぶこと。2033年、教祖150年のお年柄を思い、教団各教会などが、「このようになって、ありがたかった」と予祝して、自身の在り方を含め、お道の将来への願いを言葉にする試みだ。
研修会当日、参加教師たちから、さまざまな弔辞と予祝の内容が語られた。「地域の恒例行事に長年関わる自分の姿を通して、信心の大事さが周りの人へ伝わった」「先々代・先代教会長の信心を求め、ご用や家庭であいよかけよの在り方を現した」「教会が、仕事や人間関係、育児に悩む若者が飛び込める場となり、SNSでのつながりも生まれた」「金光教の信仰について本を執筆し、全世界で読まれた」「ご本部や周辺のバリアフリーが、より充実して参拝しやすくなった」などといった、今までその教師から聞いたこともなかった願いが発せられた。
さらに、それらを基にして「どうしたらそうなった?」などと、互いに質問を交わしながら、皆で対話を進めた。それぞれの願いには、ずっと伝えられ、大切にしてきた教えが元にあったり、これまでの人生で味わった喜怒哀楽の経験が踏まえられていたりした。そして、神様が自分に何をすることを願われていて、後世に何を伝えたいか、そういう未来への祈りを感じた。
対話を通して、私にはない発想に驚き、新たに気付かされることも多かった。これからもこのような場を持ち続け、「その願いに今、何ができるだろうか」と対話を重ねていくことが大事だと思っている。
今、世間では「フューチャーデザイン」という手法が注目されているという。将来世代の視点を取り入れて、自治体施策・環境整備・技術開発などを、どのようにしていくかを議論するために、「未来人の身になって」考え、話し合いをするそうだ。現状にとらわれない独創的なアイデアが生まれるという。現状分析による〝予測〟ではなく、「こうありたい」と未来を〝構想〟する呼び水になるからだろう。
私自身、日々の生活の中で、さまざまな課題を感じ、不安や心配にかられることもある。そういう時こそ、神様に心を向けて祈る中から生まれる「先への願い」を持つことが、今すべきことが見えるきっかけになる。近視眼的な考えや我欲にとらわれることなく、未来への大きな願いを土台にしつつ、生かされている一生に一度の今を大切に、実意を込めていきたいと思っている。
「フラッシュナウ」金光新聞2020年3月22日号掲載