One for All, All for One
牟田教二(福岡県・門司港教会)
来年は、東京オリンピックが開催されます。すでに「内定者が決まった」とか、「金メダルをいくつ獲得できるか?」といった、さまざまな報道やキャンペーンが繰り広げられ、徐々に盛り上がってきています。さらに、今年の9月からは、ラグビーのワールドカップも日本で開催されます。
ラグビーは、背の高い人や低い人、太っている人や痩せている人、さまざまな体格の選手が一つのチームとなって、一つのボールを、自分より後方にいる味方にパスをつなぎながら、相手ディフェンスをかわして前進し、相手陣地を目指す競技です。それぞれの体格に応じて、それぞれの役割を理解し、勝利という目的に向かってお互いに協力することが求められます。自分勝手な一人よがりのプレーは通用せず、チームのため、みんなのために働き、またチームは、一人の選手が十分に活躍できるようにサポートします。その精神を「One for All, All forOne(一人はみんなのために、みんなは一人のために)」という言葉で表されています。 この言葉の由来は、1618年のボヘミア、今のチェコで、カトリックとプロテスタントとの間で起きた30年戦争の時に、プロテスタントの指導者が一致団結する時に述べた声明文の一節だそうですが、それが後にスイス国民のモットーとなったり、小説『三銃士』の文言となって広まったようです。そして現在では、ラグビー選手たちのモットーとなっています。
私は、ラグビーを専門にしていたわけではありませんが、小学校の朝礼で校長先生がよく、この言葉を話していました。特に金光教の教勢が低迷している今日、私は、このフレーズが復活の鍵になるのではないかと思っています。それは、みんながそれぞれのところで、一人の氏子の助かりに向けて祈りを結集する、ということです。
今、「取次の形骸化、信心の枯渇」が起きていると言われています。そのため、「結界取次による助かりの実現」に向けて、いろいろと取り組みがなされており、特に教師の育成に力点が置かれています。全教の教師が今一度、先人たちのような取次力を復活できればいいとは思います。しかし個人的には、教祖直信や昔のような高徳な先生方、今風に言えば、信心のエリートを組織として輩出するのは限界があるのではないかと思っています。
それは教師の立場での発言としては失格でしょうが、むしろ私たちは、徳のない者だという自覚を持ち、いい意味で開き直って、徳のない私たちにさえも、神様は「人が助かる」ということを期待されており、「人が助かることさえできれば、それで結構である」という教祖様、神様の願いに向けて、私たちは何ができるのかを求めていくべきではないかと思うのです。そこには、教師も信徒もないチーム作りが必要だと感じています。
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