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物を大切にした母の心【金光新聞】

母のようにはしない

 長かった夏休みも終盤に入り、もうすぐ新学期が始まります。
 4人の子どもを持つ私(46)は、「みんな、学校に行く準備しておきなさいよー。雑巾は何枚要るの?」と声を掛けながら、子どもが新学期に学校へ持っていく雑巾を縫い始めました。
 「カタカタカタ…」とミシンの針が動く様子を眺めていると、私の頭には、ある懐かしい思い出が浮かんできました。
 私が子どもの頃、私の母もまた、今の私と同じように雑巾を縫ってくれていました。
 けれど、母が用意してくれる雑巾は、なぜかいつも父が着古した肌着のシャツを縫ったものでした。「嫌だなあ。学校のみんなはタオルの雑巾なのに」と、シャツの首元部分が表になっている雑巾をかばんに入れ、憂鬱(ゆううつ)な気持ちで登校していました。
 思春期になり、我慢できなくなった私は、「古いのでいいからタオルで作ってよ」と母に頼んでみたこともありましたが、「タオルはもったいない。神様に申し訳ない」と言うだけで、作ってくれませんでした。

 また、母は靴下の穴に当て布をしてくれていたのですが、時々、靴下と当て布の色が違い過ぎて、目立つ時などは、学校で上靴を脱ぐのが恥ずかしかったものです。
 とはいえ、私も子どもたちの靴下に穴を見つけると、母が私にしてくれたように当て布をして繕います。ただ、生地が擦り減って薄くなったものは掃除用として再利用するのが私流でした。
 ある日、 その様子を見ていた子どもたちが、 「お母さん、お気に入りの靴下をぼろ布にしないで直してよ。もったいないよ」と言うのです。「縫うのも大変だし、こんな状態の靴下じゃ、恥ずかしいはず」と思っていた私にとって、子どもたちの一言は本当に驚きでした。
 そこまで言われたら、ぼろ布にするわけにもいかず、「物を大切にしようとする子どもたちの心を大事にしなければ」と思い、私は一針一針丁寧に縫うようになりました。

私の母のように

 思い返せば、苦い思い出だったはずの、あの当て布で繕われた靴下も、冬になると生地が重なっている分、足元が温かく、寒がりの私には、とても良いものでした。「なんだかんだ言っていても、意外と気に入って履いていたのかもね」と、私はほっこりした気持ちになりました。
 そして、「お母さんは忙しい中で、こんな手間のかかることをしてくれていたんだなあ」という気持ちになり、「そういえば、私たち姉妹におそろいのすてきな洋服も作ってくれたなあ」と、うれしい思い出が次々とよみがえってきたのです。

 母は昔、幼い私に「おじいちゃんはね、こんな時はこうしていたのよ」「おばあちゃんはね、こういう時、こんなふうにしていたよ」と、祖父母がどんな物も神様から頂いた物として粗末にしなかったことを一つ一つ教えてくれていました。
 そのことを思い出した時、「私はまだまだだなあ」という気持ちになりましたが、私が母から学んだことを、いつの間にか、子どもたちがそれぞれに感じてくれていたということが、ありがたくてなりませんでした。
 物を大切にすることを通して、あらためて親のありがたさ、さらに神様のありがたさを感じることができました。この気持ちを、日々の生活の中で子どもたちにも伝えていきたいと思う、今日この頃です。

※このお話は実話をもとに執筆されたものですが、登場人物は仮名を原則としています。

(「心に届く信心真話」2018年8月26日号掲載)

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タグ: 金光新聞, 信心真話,