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「私の神人物語」を織る

金光教報 「天地」4月号 巻頭言

 織物は縦と横に糸を組み合わせて作られます。
人生は、織物に例えるなら、神様が紡ぎ出してくださる縦糸に、私たち人間が横糸を織り込むことによって、「私の神人物語」という織物を日々織り上げていくことだと思います。
 しかし、私たちは自分の考えや力に頼って、横糸を紡ぐことに終始し、いろいろな物や人をとおして届けられている神様の縦糸に横糸を織り込んでいくのを忘れてしまいがちです。
 そして、ひとたび物事が思いどおりにならなくなった時、その不遇・不幸を嘆いたり、その原因を自分以外のものに求めようとします。それでは、不平・不満・愚痴・不足という横糸だけがからまって残るだけでしょう。
 もともと不完全で、能力の限られたお互いです。当然、できないこと、思いどおりにならないことがあり、それをありのままに受け入れていくしかないのです。しかし、それは何もしないでじっとしていることではありません。
 どんな状況にあっても、神様は一刻も休むことなく、一人ひとりに縦糸を用意してくださっています。万物を生かし育む神様の縦糸に、いのちを賜り、生かされている御礼と喜びの横糸を日々、織り込んでいく。そうした信心の積み重ねが「私の神人物語」という織物を織り上げていくことになると思うのです。
 本部広前では、3月31日から天地金乃神大祭が仕えられています。大祭を迎えていつも思い出されるのは、故・金光真整先生の「神人物語」の一端です。
 師は晩年、不治の病を抱え、身動きのできない身体を横たえて、「今日の日も生死の間さまよえど生かされてありありがたき事」と詠まれました。病気のつらさを嘆くのではなく、また、遠からず訪れるであろう死を恐れるのでもなく、今日一日、時々刻々生かされている喜びをかみしめられています。
 また、ご本部の大祭当日を迎え、「わが生命今朝もめざめて御大祭むかへまつりぬ勿体なきこと」「あめつちに生きとし生けるものみなと祝ひよろこぶ今日のみ祭り」と詠まれました。本教の大祭は、今、ここに生かされているいのちのお礼を申し上げずにはおれない、御礼の祭典であることをあらためて思わせられます。
 ところで、「私の神人物語」を最初に織り始められたのは教祖金光大神様でした。教祖様は九死一生の病をとおして、万物を生かし、とりわけ人間を「神の氏子」として慈しんでくださっている親神様に出会われました。
 以来、教祖様は「神の氏子」として生きるという横糸を実意丁寧に織り込まれていく中で、安政6年10月、立教神伝という一本の縦糸を受け止められ、難儀な氏子を取り次ぎ助けるという横糸を織り込むことに専念されました。そして、参ってきた人に、あなたも「私の神人物語」を織ってみませんかと信心を勧められ、その織り方を教えられたのだと思います。
 「私の神人物語」という織物は色合いも模様も異なります。そんな千差万別の織物が世界中で織られていくことを神様は願われています。また、初代をはじめ、先人がどんな織物を織って私に届けてくださっているのかを確かめ、さらに自分色、自分模様の織物を織り続けて、子どもに手渡していくことを願っておられます。
 このたびの天地金乃神大祭、さらには秋の立教160年生神金光大神大祭には、一人ひとりが「私の神人物語」という織物をお供えさせていただき、神様、教祖様にいっそう喜んでいただきたいと願っています。

三浦義雄(総務部長)

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