思い一つ、心一つになれたなら
金光教報 「天地」2月号 巻頭言
立教160年を迎え、本部広前の定時のご祈念では「立教160年御礼祈願詞」を奉唱している。その中身は、10年前に作られた「立教150年御礼祈願詞」を基にしているが、このたびは「神人の道」という教主金光様のお言葉が加えられ、新鮮な気持ちで奉唱させてもらっている。
格調高い、厳かな祈願詞の文末に「全教思い一つに祈りまつらん 心一つに願いまつらん」とある。私はいつもここで、心を正される思いがし、真に「全教思い一つ 心一つ」になれたなら、何かが変わるのではないかと期待するのである。
まずは、全教で同じ文言を、ご祈念の中身として唱えているのだから、それだけでも「全教思い一つ 心一つ」とも言えよう。しかし、もう一歩踏み込んで、一つになる内容を確かめてみたい。
教祖様のご理解に「世に勢信心ということを言うが、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力をそろえれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中、勢をそろえた信心をせよ」とあるように、全教の勢信心を神様、教祖様が待ってくださっているように思う。
この勢信心というご理解について、私の父は、「今日の建設作業は、ほとんど機械化されたが、昔は人力の共同作業で行われていた。昔は汽車や電車の道床固めに大勢の工夫(こうふ) が鶴嘴(つるはし)を打ち込んでいる工事をよく見かけた。そこには音頭取りがいて、その音頭の一節ずつにしたがって、鶴嘴が下ろされていた。…教祖様も青年時代に、村の道路や補修工事の村普請に再々参加し、働かれた経験がこうしたご理解となったのであろう」と書き残している。
これは30年ほど前の文章だが、それからさらに時代は進んでいる。私も小さい頃の大掃除などには「せーの」と、声を掛け合って物を運んだ経験がある。しかし現代は、いかに楽に物を運ぶかを考え、大きな物こそ機械に頼り、ボタン一つで持ち上げる時代である。みんなで力を合わせるという場面に出合うことが少なくなった。
音頭取りと聞いて思い出すのであるが、昔は人を運ぶのも二人で駕籠(かご)を担いだ。その時の合言葉が、岡山地方では「あいよかけよ」であったと聞いている。ところが今は、人を運ぶのはワンマンカーが主流になり、無人運転さえ考え出されている。今や一人ひとりの力を合わせる勢信心をイメージするのは難しいのかも知れない。
かつてアメリカ合衆国が、「月に人類を送る」という、とてつもなく大きな夢を掲げた時のエピソードであるが、時の大統領ジョン・F・ケネディがNASA(航空宇宙局)を訪ねた。そこで懸命に掃除をしている人に声を掛けた。「君は最高の清掃人だ」。すると清掃人は答えた。「いいえ、大統領。私はただの清掃人ではありません。掃除をすることで月に人類を送ることに貢献しているのです」と。アメリカ国民一人ひとりが、こうした気概を持ったからこそ、人類が月に行くというとてつもないことが実現したのである。
教団状況が厳しいと言われる昨今であるが、立教160年という節年を迎え、教祖様ご立教の精神に立ち返り、160年のご神勤にお礼を申していくという機運の中で、信奉者一人ひとりが「思い一つ 心一つ」になって、「神人の道を現す」という大きな願いを共に実現していきたい。その音頭取りを「立教160年御礼祈願詞」の文言に託したいと思うのである。