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神様にお礼言われる番【金光新聞】

お酒を頂きすぎて

 昨年の七夕のことです。私(45)は、ある信徒が亡くなって一年のお祭りを、その方のお宅で仕えました。祭典後に行われた故人をしのぶ席では、思い出話に花が咲き、予想以上にお酒を頂き過ぎてしまいました。ひどく酔っぱらった状態で教会に帰り、ご神前で無事にご用を終えたお礼を神様に申し上げ、布団に入ろうとした矢先、電話が鳴りました。
 「こんな夜遅くに…」 と、思いながら電話に出ると、 信徒の拓郎さん (77)でした。拓郎さんは慌てた様子で、「先生、大阪に住んでいる長男の竜司が心筋梗塞で倒れました。発見が遅れた状態で病院に運ばれ、現在、手術を受けています。妻と一緒にこれから病院へ向かいます。どうかおかげを頂かせてください」と言うのです。
 あまりにも切羽詰まったお願いに、一瞬で酔いが吹っ飛んだように感じました。拓郎さんは、私が奉仕する教会で、熱心に信心を進め、ご用に尽くしてきた方で、私にとっては父親のような存在でもありました。また、倒れた竜司さんも、同じ年齢ということもあり、小さいころから一緒に遊び、今でも帰省するたびに、お土産を持って教会に参拝してくれる大切な友人でした。

 電話を切った私は、「拓郎さんより先に、息子の竜司さんを死なせるようなことがあってはならない」という思いが込み上げ、すぐにご神前に行ってご祈念を始めました。
 しかし、それもつかの間、10分もしないうちに強烈な眠気に襲われ、不覚にも眠ってしまいました。翌朝、極度の二日酔いによる頭痛と吐き気で目覚めると、私は布団の上にいました。心の中で、「ジ・エンド」 という言葉が響き、「私がふがいないせいで竜司さんを助けることができなかった。教師失格だ」と自己嫌悪に陥りました。「私で4代。これまでこの教会はおかげを頂いてきたけれども、いよいよこれでおしまいか」と悲しい気持ちになりました。

お道の教師としての

 朝の勢祈念の後、拓郎さんから電話がありました。その内容は、「かなり危なかったのですが、命に別状はなく、リハビリ次第で職場にも復帰できるそうです。おかげを頂きました。ありがとうございます」と、思いがけないものでした。
 一瞬あっけにとられましたが、すぐさまご神前へ走り、「神様、ありがとうございます!」とお礼を申し上げました。しかし、しばらくすると神様がため息混じりに嘆かれたような思いになりました。「おまえはいつも、おかげを受けたら、お礼を言うだけ。おまえのお礼は聞き飽きた。今度は、お道の教師としての心意気を見せてくれ」と。

 そのままご神前で自問自答していると、「今度は私が、神様に『ありがとう』と言って頂く番なのかもしれない。お礼の信心とは、ただお礼を申すだけでなく、神様からお礼を言われる私にお育て頂くことではないか」と、心に浮かびました。
 「お道の教師として、どのようなご用をするのかが問われているんだ。そのための第一歩として、言動や表情など、私を通して現れているものを見直し、みんなが笑顔になることを第一に考えてご用に励もう」と、心に決めました。
 このように願いの構えが定まると、不思議と神様に向かう時間が増えました。そして、信心することがより楽しく感じられるようになったのです。

(「心に届く信心真話」2017年7月16日号掲載)

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タグ: 文字, 信心真話, 金光新聞,