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御霊様が生きる信心「死者は生者に現る 生者は死者を現す」 

金光教報 「天地」9月号 巻頭言

 ご霊前で祈りを込める時、また、生活の中でふと故人のことを思う時など、御霊様の生前の姿や言葉が、私たちの心に蘇ってくる。御霊様は、片時も離れず私たちに寄り添い、ご祈念くださっているように思えてならない。
 私の師匠(親教会長)は、第2次世界大戦時、予科練に入隊し、特攻隊を志願した。昭和20年8月6日早朝に、台湾の基地より250キロ爆弾を積み込み、いよいよ沖縄への出撃命令を待つばかりになっていた。そして出た命令は、「出撃待て」で、やがて「出撃中止」の報であった。
 終戦後、師匠と同じく出撃を待っていた戦友が、折々に師の教会に参っていた。その時の二人の会話である。
 戦友「あんたは『俺は絶対に死なない』と言っていたので、あんたといたら死なないような気がしていた」
 師匠「特攻隊に志願して死にに行っているのに、そんなことを言う訳がない」
 戦友「いいや、あんたはそう言っていた」
 私はその会話を聞きながら、おかしな話だな、くらいに思っていた。ところがその後、師の祖父の言葉に出合った。幼い子を亡くされた時の思いである。
 「親に先立つ者は不孝者と言われておるが、おまえが死んだのは不孝ではない。これは深い神様のみ計らいであると思う。おまえはこの父に、本当の親心というものを分からせてくれた。この経験が、これから多くの人の助かる元になると思う。おまえを犬死にはさせぬ。そして、これからの自分は一人ではない。おまえと二人の自分である」
 この言葉に出合って、初めて師匠の思いが響いてきた。志願して特攻隊に入っているのだから、いずれ死んで身体は無くなるが、自分は決して死にはしない。魂は生きどおしに生きて、祖父の中に生き、共に御用をさせていただくのだ、という心持ちが込められていた。
 以来、私は御霊様は生者をとおして現れようとされ、生者は御霊様の願いを現すということが大切な御用の一つだと思わせられたのである。
 教祖様は立教神伝を受けられる前年の安政5年7月、先祖の精霊を迎えて供養する日の夕方、次のようなお知らせを頂いた。
 「金乃神様お知らせあり。家内中へ、うしろ(大橋家)本家より八兵衛と申す人、この屋敷へ分かれ、先祖を教え。戌の年さん、お前が来てくれられたで、この家も立ち行くようになり、ありがたし。精霊御礼申しあげ」
 教祖様のご信心によって、先祖が立ち行くようになり、養家の不運な過去に道がついたのである。
 また、教祖様は「ご信心しておくがよい。ご信心してあなたがおかげを受けると、あなただけではない、後々の孫、ひ孫の末の末までがおかげを受けるし、また、ご祖先ご祖先の精霊御霊までが、あなたがご信心して、おかげを受けてくれるからと、安心してお浮かびなさる。あなたの受けたおかげは、いつまでも離れずについてゆくものじゃから、できるだけこの世でご信心して、おかげのもとを作っておくがよい」とご理解くださっている。たとえ、ゆくりなく亡くなられた御霊様であっても、生きている者の信心によって救われていくのである。
 霊祭をお迎えするに当たり、あらためてそのことを心に刻んでまいりたい。
 

(財務部長・山下輝信)

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