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子どもへの祈り

金光教報 「天地」8月号 巻頭言

 私たち日本人は昔から、「銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむに勝れる宝子に及(し)かめやも」という山上憶良の歌にあるように、わが子を、何物にも代えがたい宝として大切にしてきました。
 また、「這(は)えば立て立てば歩めの親心」ということわざがありますが、先の歌とともに、時代を超えて今も、子を持つ親なら素直に共感できる思いが込められているように思います。
 しかし今日、「しつけ」と称して、言葉や行為による暴力を正当化し、時にわが子を死に至らせる痛ましい事件が後を絶ちません。また、過保護の弊害が指摘されても、わが子を思いどおりにしようとする親も多いといいます。どんな親にも、わが子の健やかな成長と幸福を願う心があるはずです。でも、実際の関わり方によって、子の心や身体を傷付け、支配し、親子共に不幸な結末に至るのはなぜなのでしょう。
 私は、「子は親である自分のもの」という思いがあるからではないかと思います。自分が所有するものなら、自分の好きにしてよい、思いどおりにしてよい。そんな考えに至るのかもしれません。
 教祖様は、「子供が15歳にもなれば、…自分のことは自分で信心しておかげを受けさせるようにしなければならない。親から見れば、大きくなっても子供のように思うけれど、かわいがり過ぎたり、世話をやき過ぎると、先のためにならない」、「子供を叱り叱り育てるな…」、「子の頭をたたくより、自分の頭をたたけば、すぐおかげになる」など、子育てに関わるみ教えを数多く残されています。
 そうしたみ教えには、子は天地の親神様から授かった神の氏子であり、だからこそ、神様から託された尊い存在として大切に預かり、神の氏子としての成長を願い、信心を伝えさせていただきたい、という祈りが込められています。
 しかし、子は親が願う在り方から外れ、このお道の信心と正反対の生き方をするようになることもあります。
 もう何十年も前のことですが、3歳下の弟が高校生の頃、仲間たちとの度重なるオートバイの暴走運転により補導されるということがありました。それまでずっと母は、心配のあまり、素行を改めるよう口うるさく注意していましたが、面会に行った時、神妙にしおれている弟を見て、「かわいそうに」という思いが込み上げ、思わず抱きしめたと言います。父は、「自分が代わってやりたい」という思いで、金光様、親先生のお取次を頂き、神様に一心に祈っていました。
 そんな両親の思いが届いたのでしょう。弟は深く反省してそれまでの生活を改め、一浪したものの働きながら夜間大学を卒業しました。
 弟の心を動かしたものは何だったのでしょうか。それは、頭ごなしに責めるのではなく、本人の身になって、そばに寄り添おうとする共感共苦の心であり、さらに、神の氏子としての人間に与えられている分け御霊(神心)の働きによって、自らが改まっていくことを願う、一心の祈りであったと思うのです。
 当時、大学生であった私は、弟とは違う形で親の願いに反する生活をしていました。父は一言も口出しをせず、見守ってくれていました。その後、卒業、就職と時間はかかりましたが、信心の道に生きる思いにならせていただけたのは、どこまでもわが子を神の氏子として信頼し、願い続けてくださった親の祈りがあってのことです。
 今では、子らが一家を成し、子や孫のことを祈らせていただく時、自分が子であった頃の親の祈りに思いをいたし、親の恩をあらためて感じ、分からせていただけるのをありがたく思っています。
 

(三浦 義雄・総務部長)

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