平和を創るために行動する【金光新聞】
ヒロシマの家「シュモーハウス」に込められた願い
広島市中区の住宅街に、小さな資料館「シュモーハウス」がある。広島に住む人にすら、まだあまり知られていない施設だが、そこには、原爆によって破壊された広島の復興を陰で支えた、一人のアメリカ人男性による、尊くて心温まるストーリーがある。
その男性の名前は、フロイド・シュモー。1895年に米国カンザス州で農場を営んでいたクエーカー教徒の家庭に生まれた。彼は大自然の中で過ごすことを好み、ワシントン大学で森林生物学の講師として、環境問題などを教えるようになった。
1945年8月6日午前8時15分、広島に人類史上初めて原子爆弾が投下されたことを知ったシュモー氏は、その場で米国大統領に抗議電報を打った。
シュモー氏は、「ヒロシマに原爆が落ちた時、あなたと私の上にも、そして未来の子どもたちの上にも落ちた」のだと感じ、一大決心をする。広島へ行き、自国の犯した原爆投下への謝罪の気持ちを伝えたい。しかし、それだけでは足りない。住まいを失った人たちのために、一軒ずつ家を建てよう、と。
彼は、たった一人で募金活動を始めた。その活動は人から人に広がり、3年間で約4千ドルが集まった。そして、飢えた子どもたちに乳を飲ませるための数百頭のヤギを連れて、日本にやって来たのだった。
その後、活動に賛同してくれた仲間3人と共に、広島のキリスト教会に滞在して活動を始めたシュモー氏だが、当時、広島は連合国最高司令官総司令部(GHQ)による原爆報道の厳しい規制下にあり、活動を行うことは容易ではなかった。だが、シュモー氏の熱意と行動に共感した日本人の学生やボランティアが次第に集まるようになり、数年の間に21軒もの家と集会所を建てた。
1949年、シュモー氏は最初に建てた家を「平和住宅」と命名し、庭には日本語で「祈平和」、 英語で 「THAT THERE MAY BE PEACE(平和が訪れますように)」と刻まれた石灯籠を建立した。
シュモー氏が建てた住宅群は、建築後30数年を経て老朽化が進んだことから徐々に解体されていき、最後に一軒の集会所だけが残った。
原爆の被害を受けた人々が集い、励まし合い、親交を深めていっただろう集会所を広島復興の象徴として残そうという動きが、やがて地元住民やシュモー氏の平和への思いを受け継いだ人々が中心となって生まれた。そして、2012年に広島平和記念資料館の附属展示施設「シュモーハウス」として生まれ変わったのだ。
広島を後にし、長崎や朝鮮戦争後の韓国にも渡って家を建てたシュモー氏は生前、こんな言葉を残している。
「平和運動とは言うことではなく、『行う』ことである」
たった一人で行動を起こし、国や人種の違いを超えて、人を助けるために手を差し伸べ続けたシュモー氏。彼を動かした思想の根底には、クエーカー教徒としての信仰的な信念があったに違いない。私は、信心に基づいた平和を願う行動の在り方を教えられた思いがするのである。
広島は、72回目の原爆の日を迎える。今、私たちが平穏な日常を送れているのは、そうした平和を創る努力を
してきた人たちがいたからである。そして、その努力の確かな積み重ねの上に、私たちは平和を享受できている。
たった一人の行動は微力かもしれないが、無力ではない。この平和な社会が続いていくために、一人一人が「平和を創る」ために自分ができることを求め、行動を起こすことが大切だと実感している。今が戦後ではなく、戦前にならないために。
(「フラッシュナウ」金光新聞2017年8月6日号掲載)