家内円満を願って
金光教報 「天地」8月号 巻頭言
昭和30年、当時学院長であった高橋正雄師の年賀状に、「お願い」と題した次のような一文があった。
【どんなに世の中の事がかわりましても、私共親子夫婦家族の間柄がよくなっていき、そのなかで助かっていかねばならないことにかわりがあるとは思われません。そしてそれは一人ひとりの生き方に道を求めていくと共に、家庭全体としての在り方の上に、いつも「願い」があって、それが生きた働きをしていく事が大切であると思われます。今年どうぞそのことが進みますように】
わが家庭を顧みると、紆余(うよ)曲折を経ながら、現在なんとか円満を保っている状態にはあるが、「願い」を共有しているとは言いがたく、あやふやなものであることは否めない。
『お知らせ事覚帳』には、明治4年「親大切、夫婦仲ように、内輪むつまじゅういたし候(そうらえ)」。明治5年「心改めて男一人女一人、夫婦仲よう、親大切、内輪むつまじゅういたし」。明治12年「親大切、夫婦仲ように、内輪むつまじゅういたし、出世繁盛願い」など、家内円満に向けてのお知らせが、数多く見受けられる。
また、み教えには、【金光様は、「…神信心しておれば、夫婦はもちろん、兄弟、家内、縁者、みな仲ようせねば、神は満足に思わぬ、喜ばぬ」と教えてくだされたぞ】(理Ⅲ尋求139)、他にも「家内一統、仲良くして信心せよ」(理Ⅱ河虎6)、「家内中、心そろうて親切な信心がよろしい」(理Ⅰ山定41)などがある。
教祖様ご自身のご家庭はどうだったかというと、ご子息の正神様が問題を抱えるなど、必ずしも順風満帆ではなかった。しかし、「家内中親切にし、信心をすれば、心がそろうようになり」(理Ⅲ理拾18)おかげを受けられたわけである。
また、「仲よう」「むつまじゅう」ということで思い出すのが、芸備教会初代・佐藤範雄師の話である。
昭和6年に上京した際、東京府知事を訪問された。そのお供をした当時大学2年生の孫、佐藤一徳師(金光学園の元学園長)が、次のように伝えている。
【玄関だけの御挨拶のお積もりだったのですが、奥様、お子様も総出のお出迎えで、遂に応接間に上がられました。小さいお子様のおつむをなでなでの和やかなお話が知事御夫妻と御祖父(おじい)様さま(範雄師)との間にかわされ、(中略)何の話からだったか覚えておりませんが、御祖父様が次のように仰ったのであります。それは一語一語、区切り区切りの、実に力強いお言葉でした。
「佐藤の家には、爵位(しゃくい)もござらん。名誉もござらん。金もござらん。が、幾十人の一家一族、一人の仲たがいもござらん。これが、神様から頂いた佐藤の家の宝でござんす」
じっと聴いておられた知事御夫妻は、大きく頷(うなず)かれたまま、暫(しばら)くお顔をお上げになりませんでした。御祖父様の後ろに立っていた私も、思わずジーンと身がしまって、目頭が熱くなり、「仕合わせ者! ありがとうございます」と、おもてを伏せて、自分で自分に言いきかせておりました】という話である。
一人の仲たがいもない人間関係のおかげを頂くこと、それこそが家の宝であり、この道のおかげによるものと言えるのではないだろうか。
教主金光様のお宅の大玄関には、「中用清(なかようせい)」(赤木格堂書)という額が掲げられている。その添書きには、「金光教祖常に漢字を借りて国音を顕(あらわ)す。さながら萬葉歌人の如し。立教の本旨この三字にあり」とある。教主宅では、「夫婦仲よう、親大切、内輪むつまじゅういたし」てきた歴史があるから、信心も伝わり、大切な御用を担い続けてくださることができられているのだと拝察させていただく。
もう一つ、大切に思うところは、明治6年、年頭のお知らせである。
「家内中、神のこと忘れな。何事あっても人を頼むことすな。良し悪ししことも、神任せにいたせい。心配すな。世は変わりもの、五年の辛抱いたし。とにかく、内輪きげんようにいたせい。もの言いでも、あなたこなたと申してよし。何事もあだ口申すな」(覚書21-1)というお知らせであるが、これを苦難を乗り越えるための教え、として頂いていきたい。
「家内中、神のこと忘れな」「神任せにいたせい」「夫婦仲よう、親大切、内輪むつまじゅういたし」、そして「信心辛抱」を願いとして、ここから先、家内円満、子孫繁盛のおかげを蒙らせていただきたいものである。