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願い合いで伝わる信心【金光新聞】

「どうしてこんなことになってしまったのだろう」

 私が奉仕する教会に足しげく参拝し、熱心に信心を進める幸子さん(75)は、若いころ、生まれたばかりのわが子の激しい夜泣きがきっかけで、知人に導かれて参拝を始めました。その時、先代の先生から「自分の力だけでしようとせずに、どんな時でも神様にお願いし、おすがりして、させて頂けばよい」と教えてもらいました。それからは、何事もそうさせてもらうことを素直に実践していきました。
 以来、その時に感じた安心と、その後の神様からのおかげを忘れることなく信心を進め、次第にその祈りは、自分の身の上に関わる事柄から、日々の生活の中で関わる人たちや起きてくる事柄にも広がり、その都度おかげを頂いていきました。そして今では、夫、息子家族、娘家族が教会に参拝し、信心を進めています。

 さて、1年半ほど前、幸子さんの娘さんと息子さんから、教会に電話がありました。内容は、「母が思いも寄らない感染症にかかり、意識不明になって病院に運ばれた。命に危険があり、どうか神様にお願いして助けて頂きたい」というものでした。
 私は娘さんと息子さん家族と一緒に、病気の回復を神様に懸命に願いました。やがて、幸子さんは危篤状態を脱することができました。
 幸子さんは1カ月ほど入院治療を受け、その後は自宅での療養生活となりました。
 しかし、微熱が続き、体力が衰えるとともに体のあちこちが痛み出し、歩行はもとより、体を起こしたり横になること、食事を取ることすら困難な状態になりました。また、排尿にも支障が出て、その影響で別の病気を併発したのです。
 長年信心してきた幸子さんでしたが、今までに経験したことのない苦痛と不自由、そしてふがいないわが身の上を嘆き、すっかり気力を無くしてしまいました。「どうしてこんなことになってしまったのだろう」。不安と不足が口をついて出るようになり、表情も暗くなるばかりでした。

大きな分岐点

 そんな幸子さんに代わって、神様に病気の回復を祈ったのは、娘さんと息子さんでした。そこには、以前の母親の信心さながらに、神様に懸命にすがり、お願いする姿がありました。その祈りに導かれるようにして、幸子さんの病状は日を重ねるにつれて少しずつ回復していきました。
 そうして再び元気を取り戻しつつある今日では、不平不足の言葉は聞かれなくなり、自分の足で教会参拝ができるようになることを目標に、リハビリに励んでいます。

 私には、幸子さんの発病から現在に至るまでの経過の中に、大きな分岐点のようなものがあったと思われてなりません。
 それは、幸子さん本人が意識不明で、自分自身で神様にお願いし、おすがりできなくなった時と、その後あまりにも病状がつらく、神様に願う心を見失った時です。
 この時、娘さん息子さんが幸子さんに代わって神様にお願いすることができたことが、その後の経過を左右したように思えてなりません。そして、それができたのは、常日頃から幸子さんの「どんな時でも神様にお願いし、おすがりする」信心を身近で目にし、そのことでおかげを受けてきた姿に触れていたからだと思うのです。
 信心が伝わり続くには、家族が願い合い、祈り合うことが大事だと、私は思っています。

※このお話は実話をもとに執筆されたものですが、登場人物は仮名を原則としています

(「心に届く信心真話」金光新聞2015年7月5日号掲載」)

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