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親の深い祈りに導かれ【金光新聞】

「お金と暇があれば病院に行くのか」

 私(61)は現在、九州の離島で教会のご用に当たらせてもらっています。この地は父の生まれ故郷であり、そこに教会を開くことになった成り行きに深いご神慮と祈りを感じずにはいられません。
 父は中学を卒業すると、故郷の島を離れ関西で生計を立てるようになりました。昭和25年4月、洋服仕立業を営んでいた父は、知人の勧めで母と一緒に初めて金光教の教会へ参拝しました。
 以来、私も幼いころから父に連れられて教会に参拝するようになりました。

 ある時、私は全身に吹き出物が出る病気にかかり、一時はお乳も飲めなくなりました。病院で診てもらうと、その時はいったん治まるものの、泣くとまた全身に出て、そのたび通院を繰り返したそうです。
 そんなある日、父は親先生(教えの師のこと)から、「お金と暇があれば病院に行くのか」と、厳しく言われました。親にとって、子が病気で苦しむ姿ほど心配でつらいことはありません。父はその思いを神様に向け、神様に一心になることで治して頂こうと決心し、私はその祈りでおかげを頂いたそうです。
 また、私が腹膜炎になった時も、父は私を病院へ連れていきましたが、その日はベッドが空いておらず入院ができませんでした。病院で応急手当をしてもらうと、その足で教会へ行きました。それから毎朝、父は教会への参拝を続けて祈り、その1回の手当てだけで、私は回復のおかげを頂いたのです。

父と親先生のあつい祈り

 父は親先生から、毎日の参拝を続けるよう促され、「雨が降り風が吹くから、つらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ身に徳を受ける修行である」と教えられました。
 私たち5人の子どもも、小学生になると毎朝5時半の教会のご祈念に必ず連れていかれました。眠たいやら寒いやら、行きたくないとぐずっても、父に無理やり連れていかれたことを覚えています。そんな父の信心と願いのもとで、私は高校を終えるまで朝参りを続けました。
 卒業後、大学を目指して上京し、新聞販売店の奨学生となり、予備校に通いました。上京には、朝参りを強いる父から逃れたいという思いもありました。でも、上京して最初にしたことは、金光教の教会を探すことでした。東京でも、ご神縁を得た教会へ毎日参拝を続け、それを通して大きな安心感を覚えました。
 その一方で、受験に再び失敗したことで次第に生活が荒れていき、友人と連れ立って飲み歩く日々が続きました。それでも、教会参拝だけはやめませんでした。

 「こんな生活を続けていたら、駄目になる」。心身共に不健康な状態からの立て直しに迫られた私は、東京での生活に見切りをつけて関西に帰ると、親先生の許しを頂いて教会に置いてもらうことになりました。そうして、教会で1年半、親先生と起居を共にする日々を通して、神様への「絶対信」の信心を学びました。
 やがて私は、教会のない場所へ布教したいという願いを持って金光教教師にならせてもらい、昭和54年、父の生まれ故郷である離島の地で布教のご用に立つことになったのです。
 このように、私の人生は信心に支えられ導かれてきました。そして、その中心には父と親先生のあつい祈りがあったことを思わずにはいられません。

※このお話は実話をもとに執筆されたものですが、登場人物は仮名を原則としています

(金光新聞「心に届く信心真話」2015年2月15日号掲載)

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タグ: 文字, 信心真話, 金光新聞,