日々平穏のありがたさ【金光新聞】
「今のままで十分です」
もうすぐ七夕です。私はこの季節になると思い出す出来事があります。
今から10年ほど前の、七夕の前日のこと。3人の子どもたちが、それぞれ願い事を短冊に書いて、ササの葉につるしました。私は、子どもたちの願い事はどんなことかと思い、それぞれの短冊を見てみたのです。
当時5歳になる三男は、「大きくなったら、救急車に乗って、けがをした人を助けたい」と書いていました。普段から救急車のサイレン音が聞こえると、家族で「患者さんが早く病院に着き、治療できますように」と、神様にお願いしていたので、そのことを子どもながらに尊いことと思っていたのでしょう。とてもうれしく思いました。
少年野球のチームに入っていた小学4年生の次男は、グローブの絵を描いて、「野球がうまくなりたいです」と、素直に上達を願っていました。
その中で、小学6年生になる長男の短冊には願いらしいものは何もなく、「今のままで十分です」とだけ書かれていたのです。
私はその文言に少なからず衝撃を覚えました。長男は、当時まだ小学生で、夢や希望がいっぱいあったはずです。本人に理由を尋ねると、素っ気なく「本当に何もない。今のままでいいんです」と言うだけでした。そこで、私なりに長男の心情を推し量ってみました。
長男は3歳のころからぜんそくの症状が出始め、小学校入学後は年々ひどくなっていき、登校しても保健室で静養したり、途中で帰宅することもしばしばでした。
家では、元気な弟たちが遊ぶ姿をただ見ているだけで、友達とも遊べず、ぜんそくがひどいと頭を洗う時に呼吸ができなくなるため、風呂にも入れませんでした。
夜ご祈念の後、肩で息をしながらお結界に来て「早く治してください」と、必死に願ったこともあります。夜中に突然大声で、「助けて!」と訴えることもありました。けれど、親としては何もできず、ただ祈りながら背中を静かにたたいたりさすったりしてやるしかありませんでした。
難儀を通して気づいたこと
そんな中、7月に入ってからぜんそくの症状が治まったのです。班長として下級生を引率して登校でき、学校も終日行けて、「今月は休まずに登校できるかなあ」と、明るい声で言っていました。
短冊に書かれたあの文言は、久しぶりにぜんそくから解放され、元気で学校に行き、授業に出られ、友達と会えることを喜び、それがずっと続いてほしいと願ってのことだったと思い当たりました。健康な人には当たり前のことが、長男には大きな喜びだったのです。
金光教の教祖様は、「痛いのが治ったことだけがありがたいのではない。いつも健康であるのがありがたいのである」と、み教えくださっています。私たちは往々にして奇跡的なおかげに引かれますが、何事もなく平穏な一日をありがたく思えることの方が、実はおかげなのです。
また、難儀を通して初めて気付かされるおかげがあります。長男の「今のままで十分です」という文言には、ぜんそくという難儀を通して、そのつらい経験から、健康のありがたさへの気付きが表されています。
私は、この思いをずっと忘れずにいてほしいと願うとともに、私自身も、子どもたちが元気でいてくれることへのお礼を忘れてはならないと、七夕の季節になると強く思わされるのです。