大地に座り神にすがる【金光新聞】
奥城に向かってのご祈念
数年前の11月のこと。私が奉仕する教会の布教80年の記念祭を1週間後に控えた日、母が急性大動脈解離で突然倒れました。教会長の父をはじめ、教会を挙げて準備に当たっていた最中のことでした。
母が搬送された病院の医師は、「この3日間が山です」と私たちに告げ、幸い今は小康を保っているが、緊急手術になれば術中死の恐れだけではなく、成功しても障害が残る可能性があると説明しました。そして、「このまま症状が治まることを祈って待つしかありません」と言いました。
深夜、帰宅した父と私は、暗く静かなご神前で長い長いご祈念をしました。そして、「記念祭の前に葬儀を出すことになるかもしれないが、記念祭はここまでおかげを頂いてきた神様へのお礼だから、何が起きても予定通り仕えさせて頂こう」「とにかく一つ一つにおかげを頂いていくしかない」と、準備を粛々と進めることにしました。
それでも、心が乱れて定まらない私は、翌朝目覚めてすぐ教会の境内にある石造りのお社の前へと向かいました。そこは離れた所にある奥城(おくつき)を遥拝(ようはい)するための場所です。座布団ほどの広さの敷石の上に履物を脱いで座り、地面に額を擦り付けるように体を伏せました。
「大地に座って祈ってみよ。どんなことでもおかげが頂ける」。これは曽祖母が苦難のどん底にあった際、金光教の信心に出合い、恩師から頂いたみ教えです。私自身、この教えに生きた曽祖母の信心を頂きたくて、以前からこの敷石の上で、ご祈念をしていました。
初冬の早朝のこと。敷石の冷たさが体の芯まで冷やしてきました。心は何も思えないまま、じっと座っていることしかできませんでした。
天地に包まれていたんだ
どれくらいの時間がたったでしょうか、頭の上をすーっと風が渡っていくのを感じました。ふと顔を上げると、目の前の木々が風に揺れるのが見え、続いて朝の支度をする隣家の様子や遠くを走る電車の音が耳に入ってきました。その瞬間です。「ああ、天地に包まれていたんだ」という思いが心に湧き起こりました。
たとえ私が失意の底にあっても、大地はしっかりと抱き留め支えてくれている。私がどんな状況であっても、日の光と温かさは常に注がれ、天地の働きは一刻一刻やむことがない。私を生かそう生かそうとするお働きに包まれている圧倒的な実感が身に迫ってきて、うれしくてありがたくてたまらなくなりました。
今日、明日の命がどうなるか分からないのは、母も私も、誰であっても同じこと。でも、今この瞬間に生きとし生けるもの全てが、限りないお働きに支えられている…。
それからは不思議と、心乱れることはありませんでした。今日は今日で、私のできることを精いっぱいさせて頂こうと、一つ一つのご用に当たることができました。
そうして記念祭を無事に仕え、母も手術をせず、自然平癒という神様の治療を頂き、3週間後に退院しました。
曽祖母が頂いた教えは、わが身を大地に投げ出し、体も心も神様にすがり祈ることだと思います。そして、体全体で天地の親神様のお働きを感じ、ありがたさに満たされながら、なおも目の前に起こる困難を乗り越える力を頂いていくことだと思います。この体験を通して、私の信心に大きな土台を頂いた思いがしています。
※このお話は実話をもとに執筆されたものですが、登場人物は仮名を原則としています