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「想定」不可能な存在と対話【金光新聞】

今こそ「生きた神」を信じる

 教祖様は、「生きた神を信心せよ」と仰せられたが、果たしてそれはどういう信心を指しているのだろうか。今こそ「神様におうかがいし」「神様のみ思いを聴く」という神人(かみひと)の縦軸を深める信仰実践が求められている。

 現代社会は、人間の「想定」可能なもので構築され、「想定」不可能なものは切り捨てられる傾向がある。宗教も同様に、「神」という「想定」不可能なものを重要視するところから、世界を構築するものから遠ざけられてしまう。
 現代の宗教は、「神」という「想定」不可能なものを、合理的に説明する「教義」をもって、「想定」可能なものとし、「教義」を信じる行為を信心することとしている。その結果、「ご神水」「ご神米」「お神酒」など、合理的説明のつかない物、その実践の結果が「想定」できない物は、忘却されてしまう。

 しかし、教祖様は、神を「想定」不可能な存在として向き合った。その始まりは、42歳の大患の際、金神様から「日柄・方位を見て済んだと思うな」との指摘を受けたことだ。「日柄・方位を見る」「不浄・汚れを忌む」など当時の人々が信じていた信心の「想定」を、一瞬にしてひっくり返された。
 「想定」を打ち破られた先に生まれた信心は、「神様におうかがいをする」「神様のみ思いを聴く」という非常にシンプルな実践だった。そして、大患後の教祖様は、神様から「神の言うとおりにしてくれ」と願われ、事有るごとに神様の思いをうかがいながらの行動をとるようになった。その神様のみ思いは、手の上がり下がりや声を聴くなどの身体感覚として現れたり、動植物や天気をはじめ森羅万象の変化だったり、予期しない出来事を通して現れた。

 「これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方(このかた)が祈るところは、天地金乃神と一心なり」(『金光教教典』理解Ⅲ金光教祖御理解5)
 教祖様の生涯は、「生きた神を信じる」ことに貫かれていた。それは、神を「想定」不可能なものとして向き合った証しである。「生きた神」の「想定」不可能さを感じながらも、起こってくる事柄の中にある意味を神様に問い続ける、教祖様と神様の対話である。そこにこそ、想像を超えたおかげの世界が次々に開かれるのだ。

 5年前、大震災によって福島で原発事故が発生した時、新聞には「想定外」との文字が使われた。近年、各地で起こる豪雨による土砂災害も「想定外」だというが、信心を深めれば、人間には、神や天地はもともと「想定」不可能だということが分かる。
 信心するとは、神という「想定」不可能な存在に、「自身の思いを伝え」「神のみ思いを聴く」対話なのだ。対話が深まることで「生きた神」が姿を現し、この私に、はっきりと行く手を示してくれる。
 自分が願っていなかった方向へ進むことが結果的におかげだった、という体験は誰にでもある。その際、どうしてそうなったのかを神様に聴くことが必要だ。それは願い通りに進んだとしても同様である。
 われわれは、神を「想定」可能なものにする、おごった欲望を壊しながら、「神のみ思いを聴く」稽古を中心とする信心へと変わる、つまり「生きた神を信心する」覚悟があるのか、今まさに神からそう問われている。

河井 真弓(東京都中野教会)
(「フラッシュナウ」金光新聞 2016年4月24日号掲載)

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