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「助ける」 ことで「助かる」 道【金光新聞】

「ヘレヘレじいさん」に学ぶ豊かな人生の送り方

 飽くことなく経済的・物質的な豊かさを追求する現代社会に生きる私たちが、本当の意味での豊かな人生を取り戻すには、自分の願い成就を祈るだけではなく、他者の幸せや助かりを願う「利他の祈り」が必要なのではないだろうか。

 「幸せの王国」として知られる国、ブータンに「ヘレヘレじいさん」という民話がある。あるおじいさんが畑を耕していて大きなトルコ石を見つける。それを売るために市場へ向かう道すがら、おじいさんは村人たちと次々に出会い、請われるままにトルコ石を馬に、馬を老いた牛に、さらに羊、鶏と一見不利とも思える交換をしていって、最後には歌と交換し、結局、何も持たずに家に帰る。しかし、その後も貧しくとも楽しく暮らしたという話だ。
 日本では、貧乏から逃れたいと観音様に願った男が、拾ったわらしべ(稲わらの芯)を次々と高価な物に交換していって最後には長者になる「わらしべ長者」という民話があるが、まさに「ヘレヘレじいさん」とは正反対の話だ。
 資本主義が高度に発達した現代社会では、「わらしべ長者」のように成功して豊かになることが、幸福の代名詞のように思われているが、自分が(会社が/国家が)経済的・物質的に豊かになるために何か大切な物を犠牲にしてはいないだろうか。自分の手元には何も残らなくても、出会った全ての人々を喜ばせ、そのことを自分の喜びにできるヘレヘレじいさんの生き方にこそ、豊かな人生を送るための手掛かりがあるのではないだろうか。

 経済的豊かさに限らず、健康や長寿、才能や仕事のことなど、いま自分の手元にない物を求め、手に入ればまた別の物を得ようと求め続ける生き方では、心豊かな人生は永遠に訪れないだろう。しかし、一般的に日本人が神仏に祈るスタイルは、何かを手に入れるために祈る、いわゆる現世利益的な願いが主流のようだ。
 その願いがかなう時、「助かった」と実感できるのだろうが、それだけを助かり(おかげ)と見なす信仰は、金光大神の教えとは異なるように思える。「わらしべ長者」が、自分の願い通りになることで「助かる」話だとすれば、「ヘレヘレじいさん」は、他人を喜ばせる、すなわち「助ける」ことで自分も助かる話だといえるだろう。

 ところで、『金光教教典』には 「助かる」 という表現が57カ所見られるのに対し、「助ける」は128カ所もある。前者より後者に重点があることから、 このお道は、 「人を助ければわが身も助かる」 (覚帳27-1) 道であり、 「他人を助けておけば自身が助かる」 (理解Ⅱ類村木マス1)道であるといえる。
 けれども、実際には「自分には人を助けるなんて、とてもできない」と、尻込みしてしまうことの方が多い。しかし、それは「自分が」助けると考えてしまっているからではないだろうか。「自分が」という前提を転換してみると「祈り」の内容も変わってくる。すなわち、自分の願い成就の祈りから、他人の助かりを願う祈り(利他の祈り)への転換である。
 もっとも、何が本当に「利他」であるかは、当人にとって何が本当に「おかげ」であるかと同様、人間には計り知れないものなのだろう。
 他人の痛みや願いをわがこととして祈ることで、真の利他となっていくことが本来の祈りなのではなかろうか。そうすれば、おのずと神様から人を「助ける」ご用に使って頂けるようになるのだろう。その時のために常平生から準備しておきたい。

宮本要太郎(関西大学文学部教授)
(「フラッシュナウ」金光新聞 2015年9月20日号掲載)

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