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天地の恵みを尊び頂く【金光新聞】

銀杏を拾う人たち

 私の奉仕する教会の向かいには、街の総鎮守の神様を祭る住吉神社があります。
 神社の境内には鎮守の森が広がり、市民の憩いの場となっています。その森の中に1本の大きなイチョウの木があり、毎年秋になると、たくさんの銀杏(ぎんなん)を実らせ、多くの市民がそれを拾うのを楽しみにしています。
 私たち家族も教会信奉者も、天地の恵みに感謝しながら拾わせてもらっていますが、そうした、銀杏を拾う人たちの姿が教会からよく見えます。
 ところで、毎年その光景を見るとはなしに目にしながら、考えさせられることがあります。それは拾い方についてで、私の見るところ四つほどタイプがあるように思われます。

 まず一つ目は、われ先に1粒でも多くと、目の色を変えて拾う人。このタイプが一番多いように思います。
 二つ目は、一つ目に加えて、持参したと思われる棒や火ばさみを使って、また足で踏みつぶすようにしながら、銀杏の種(食する部分)だけを取り出し、皮の部分はその場に放って帰る人。その人たちが帰った後は、銀杏特有の鼻を突く臭いが周囲に漂います。
 三つ目は、地面に落ちた銀杏だけでなく、わざわざ長い棒や網を持ってきて、まだ枝についている実までも振るい落として、根こそぎ拾って帰る人です。
 二つ目と三つ目のタイプは決して多くはないのですが、それを見てまねをする人が年々増えてきているように感じられます。

社殿に向かって深々とお辞儀

 そして四つ目ですが、先に示した事例とは逆の拾い方をする人を見掛けたことがあります。
 その人は、散歩か何かで通り掛かったと思われるおばあさんでした。彼女は地面いっぱいに落ちた銀杏を眺め、ニッコリとほほ笑んで何かをつぶやきながら、おもむろに5、6粒の銀杏を拾ってティッシュに包みました。そして、額の辺りに押し頂くと、社殿に向かって深々とお辞儀をして、歩いて去っていきました。
 それ以来、そのおばあさんの姿を見掛けることはありませんが、私はその姿になんとも言えない尊さと心地良さを覚えたことが今でも思い出されます。

 地域の人たちに平等に与えられている自然の恵みの銀杏ですが、その拾い方は人によってさまざまです。
 転じて、神様は私たちに等しく、一人一人が助かり、皆が立ち行くようにおかげを授けてくださっていますが、その頂き方もまた、人それぞれです。
 私は生活のいろいろな場面で、よくあのおばあさんの姿を思い浮かべて、自分自身の在り方を問うようにしています。
 一つ目のように、自分がおかげを頂くことだけ考えてはいないか。二つ目のように、せっかく頂いているおかげをご無礼に扱ってはいないだろうか。三つ目のように、おかげの頂ける時期を待ちきれず、我欲を出して本当のおかげを受けきれていないのではないだろうか。
 そして、四つ目のように、天地の中で生かされて生きる人間として、ありがたく、もったいなく、畏れ多くという気持ちを持って、与えられた物事に臨んでいるであろうか、と。
 あのおばあさんが見せてくれたように、与えられた物事に感謝し、神様に喜ばれる生き方にならせてもらいたいと思っています。

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タグ: 文字, 信心真話, 金光新聞,