全てにお礼申す生き方と逝(い)き方【金光新聞】
自分にとっての「終活(しゅうかつ)」を考える
現在、日本の総人口の4人に1人が65歳以上の高齢者で、2035年には3人に1人となる見込みだそうだ。そんな中、相続や葬儀に関することなど、自分の死後に残される人(家族)への配慮や、「自分らしく人生を終わりたい」との思いから、高齢者を中心に「終活」への関心が高まっている。
ある日、真剣な面持ちで高齢の女性信徒が言う。「ぽっくり往生を願ってください」。
長年、老人ホームで暮らす同年配の知人の様子に触れ、また、同居する娘に負担を掛けたくない思いからであった。
数日後、その女性が「おかげを受けました。朝、洗濯物を庭に干そうとしたら、目まいで倒れました。それが、大きな庭石からわずかにそれました。庭石で頭を打っていたら、今頃どうなっていたか分かりません」と安堵(あんど)して言う。
「ぽっくりのおかげは受けませんでしたね」と二人で笑ったことだったが、高齢者の日々の憂いには深いものがある。
そんな中、私は四十数年ぶりに学生時代の友人から電話をもらった。病身の彼も団塊の世代である。「若い時分にお世話になった方に一度会うか、電話で声を聞いてお礼を述べている。これが、僕の終活です。生前の整理です」と話していた。
終活とは、人生の終わりを自分なりにより良いものにするために、事前に準備を行うことだそうだ。「いろいろお世話になった」と感謝を口にする、その友人の言葉に、私は自分の終活とはどういうことだろうかと、ふと思った。
教会のご信徒も、次第に年を召す。高齢者の占める割合は高くなり、単身者もいて、心付いておかずの一品を言付けもする。施設入所の方の安寧も祈らせて頂く。皆一様に、この先どうなっていくのか、あれこれ気をもみ、切実な不安を持つ。
ある日、誕生日を迎えたおばあさんが、孫に手を引かれて教会に参拝された。「ようお参りでしたね」「足腰が弱りましてねえ」「なんのなんの、まだまだ」と元気づけた。
にっこりするおばあさんと、そのそばに寄り添うお孫さんを見やりながら感じたことがある。それは、命に老いと若いとがある、長い、短いがある、「だから、それぞれに終活と言えるものがあるのかなあ」と。
長生きする人のみでなく、全ての人に言えること、それは、どのような生き方をさせて頂くか、である。それが、「終活」ではないだろうかと思わせられるのであった。
金光大神様は、「人間は生き通しが大切である。生き通しとは、死んでから後、人が拝んでくれるようになることである」と諭されている。「あなたのおかげで」と言って頂けるような、人を大切にして粗末にしないことである。
四代金光様のお歌に、「世話になるすべてに礼をいふこころもたしめ給へ生活現場に」とある。人や物の全て、そして、人への敬いとねぎらい、自分への励ましが込められているのではないか。そのお礼を申す生き方の日々の稽古を自分のものにすることが「終活」なんだと思い定めさせられるのである。
私は、認知症を患う母を在宅介護中である。どのような姿になるか、どのような逝き方をするか、人は選べない。
その母は健やかな時に、「どのような言葉を口走るか知れない。その時は良いように受けてください。そして、私の口から『ありがとう』が出ますように」と願っていた。良い事前準備に、こちらが救われている。
一日一生である。老いも若きも、全てにお礼を申してありがたく生き、家族も周りもありがたくしていく。そういう「終生のつとめ」にいそしみたいと、切に願わせられているところである。
(「フラッシュナウ」金光新聞2014年6月15日号)