桜花に神のメッセージ 【金光新聞】
「33輪だったら面白いのにな」
昨年の春、私(44)のご用する教会の境内に、初めて桜の花が咲きました。その桜は、4年前に先代教会長である父が亡くなって、翌年の春に植えたもので、1メートル足らずの苗木でした。
見た目のかわいらしさに引かれて購入したのですが、今思えば、父亡き後を受けて教会を継いだものの、不安だらけの自分への励ましと、新たな願いを込めた記念樹のようなものであり、この桜の成長を、私は自分の先行きに重ねてひそかな楽しみとしていました。
しかし、しばらくすると桜の様子がおかしくなり、みるみる葉っぱが落ちてしまいました。環境が変わったせいなのかと思いながら、このまま枯れてしまうのでは、と心配しました。そうして翌年の春を迎えましたが、桜の枝に花がつくことはありませんでした。
やがて季節は再び巡って、半ば諦めの気持ちで迎えた昨年の春、なんと見事な花を咲かせてくれたのです。
背丈は相変わらずですが、成長した木に咲く花と遜色ないあでやかな姿に、私は思わず自分を投影するかのように、厳しい時期を一つ乗り越えてきた喜びと感動を味わいました。
桜が満開になって四日目の朝、私はふと、何輪咲いているのか数えてみようと思い立ちました。これまでそんなことを考えたことは一度もなく、自分でも不思議な感覚を覚えました。その時、私の中には「33輪だったら面白いのにな」という思いがありました。
その理由は、一見してそのくらいかなと思ったこともありますが、それ以上に、教会のある地名の音読みが33の数字の発音と似通っていたからでした。
神様のメッセージ
そうして数えてみると、思いの外多く、99輪もありました。紙に書き留めながら枝ごとに何度も数え直しましたが、やはり99輪だったのです。
これには驚きました。もし百輪や98輪だったら、思ったよりたくさんあった、ということで済んでいたでしょう。それが、33の3倍、99輪だったことで、神様からの何らかのお知らせが込められているのではないか、と感じられたのです。
私は、うれしさが込み上げてくる一方で、一部始終を神様に見られていたような怖さも感じ、いつの間にか「神様、神様」と、唱え続けていました。
そのうちに、どのような神様のおぼしめしなのか、はっきりとした答えを知りたいという思いが高まり、私は信心の師匠にそのことを尋ねてみようと思ったのです。電話で、これまでの内容を伝えると、師匠から一言、返事が返ってきました。
「教会はあなたで何代目になりますか」
その言葉を聞いて、私は、はっとしました。
私はこの教会の3代目に当たるのです。「33輪の花が、3代続いて99輪の桜の花になったということなのか。何てすてきな神様のメッセージなんだろう」。
私がこれから歩んでいく道は、自分だけではなく、親先祖からの願いが込められたものであり、その願いは子孫へも伝わっていくのだということを、桜の花を通して神様から教えて頂いたように思いました。
その日のうちに、桜の花びらは散り始めました。私はその花びらがあまりにもいとおしく、幾つか拾い集めて押し花にしました。
「今年は何輪咲いてくれるのだろうか」。楽しみな春が、また巡ってきました。