天と地とはわが住みか 【金光新聞】
余命三カ月
2005年の9月のことでした。東京で暮らす私のもとに、実家の父から電話があり、「母が膵臓(すいぞう)がんの末期で余命三カ月。もう手の施しようもない」と知らせてきたのです。
昭和2年生まれの母は、少々のことでは病院に行かず、何事も神様に祈っておかげを頂くという信心姿勢でした。
しかし、糖尿病を患ってからは通院するようになっていましたので、父からの知らせに私は、「なぜ今までがんが発見されなかったのか。早く見つかっていれば、手術で助かったのでは」と、悔しい思いでいっぱいになりました。
母は、入院を拒みました。しかし、次第に痩せ細り、痛み止めの薬も効かなくなる中で苦しむその姿を、父は見てはいられなかったそうです。
私の実家は金光教の教会で、11月には秋の大祭が仕えられます。私は例年より早めに教会に帰り、母の看病と大祭のご用をしました。
大祭当日、これまでは私が教話をする際、母はお結界に座って聞いていました。ところが、この日はお広前の真ん中に座って聞いていたのです。母は、末期がんであることを知らされていませんでしたが、「自分の寿命を知っているのではないか」とさえ思いました。また、私の教話も、知らず知らずのうちに人間の生と死を意識した内容となり、まるで、神様が私に言わしめているような感覚になりました。
大祭が終わった後、母は入院することになりました。母はタクシーを呼ぶのを拒み、父が引く自転車の荷台に乗って、教会から1キロほど離れた病院へと向かいました。私は、危なげなその後ろ姿を見送りながら、「もう帰ってこないかも」と、言い知れぬ寂しさに襲われました。
家族を守ってくださっている
その二日後、私は東京に帰る日を迎えました。帰る前、病院に母を見舞って、「お正月に家族で帰ってくるから、それまでには元気になって退院していてね」と言葉を掛け、病室を後にしました。しかし、「これが最期かもしれない」と思うと、帰り切れず、また病室に戻ってしまいました。
そっと病室のカーテンを開けると、寝ながら合掌している母の姿がありました。すると、人の気配に気付いたのか、母が目を開けました。
私が慌てて言い訳しようとすると、母は何度も、「ありがとう、ありがとうね」と言いました。その言葉に、私は思わず涙があふれ、「じゃあ正月にね」と言って、後ろ髪を引かれる思いの中を母と別れました。
母も、「これが最期」と感じていたのかもしれません。それから2週間後、正月に孫たちの顔を見ることなく、母は78年の生涯を閉じました。
母の五十日祭を仕えた翌日のこと、当時、小学生だった娘と、母の愛犬のリリを連れて、母の墓前に参拝しました。すると、リリが母の墓石に向かってしっぽを振り、ほえながら近づいていったのです。突然のことに娘は驚き、怖がっていましたが、私が「おばあちゃんがリリをあやしてくれているんだよ」と語り掛けると笑顔になり、駆け寄って頭をなでました。
私は、母がみたまとなってなお、私たち家族を守ってくださっていると実感し、金光教祖の「生きても死にても天と地とはわが住みかと思えよ」という教えを心に思いました。今も毎日、家族で母のみたまに手を合わせています。