平成24年の新春を迎えて ─「神人あいよかけよの生活運動」が発足─
金光教報 『天地』 1月号巻頭言
天地のお働きのなかで、今月今日の命と生活を頂き、共々に新しい年を迎えさせていただいたことは、誠にありがたいことである。
この1月1日をもって、新たな信心運動である「神人あいよかけよの生活運動」が発足した。この運動は、これまでの「あいよかけよの生活運動」の継承と新展開として、立教150年を経て、今後いっそうに立教の意義と精神を確かにしながら、教主金光様がお示しくださった「神人の道」のおぼしめしを頂き、一人ひとりの生活に神様の喜ばれる信心実践が現されていくことを願って発足したものである。
この運動の名称について、そもそも「あいよかけよ」という言葉は、岡山地方の古い方言に由来するという以上に、その語源も、方言としての用例も明らかでなく、そのため、しばしば一般の社会的な価値である「フィフティー・フィフティー」と同義に用いられてきた。しかし、この道で「あいよかけよ」と言う場合、それとは大きく異なる「神人あいよかけよ」ということ。言い換えれば、「氏子あっての神、神あっての氏子、あいよかけよで立ち行く」や、立教神伝で「神も助かり、氏子も立ち行き」と神様が仰せられた信仰世界を指し示す言葉であり、教主金光様の「神人の道」も、そのような本教信心の中心的・中核的な信仰世界を表現されたものと頂くことができる。こうしたことから、「神人あいよかけよ」という言葉を前面に押し出すため、このたびの運動の名称にさせていただいた。
次に、運動の「願い」については、今日まで明らかになってきた天地金乃神様のご神願と、生神金光大神取次の内容を踏まえ、この道の信心の道筋を要点的・端的に表現するため検討を重ね、次のように定めさせていただいた。
御取次を願い 頂き
神のおかげにめざめ
お礼と喜びの生活をすすめ
神心となって 人を祈り 助け 導き
神人の道を現そう
立教150年に、あるブラジルの教師が、教会長信行会で「神人の道」というお言葉についての説明を聞き、自分なりにはっきりせず、思いあまって教主金光様に、「『神人の道』とは、どういうことでありましょうか」とお取次を願われた。金光様は、「世話になるすべてにお礼を言うことです」とご理解くださり、その教師は道が開けたという。
この「世話になるすべてにお礼を言う」という取り組みこそが、「神人の道」への第一歩であり、ここを抜きにしては、神様のおかげに気づかず、経済を中心とした情報の世界に飲み込まれてしまう。この運動の基本は、神様中心の生き方を求めさせていただくということであり、そのため、3行目の「お礼と喜びの生活をすすめ」というお礼の稽古から取り組む人があり、あるいは4行目の「神心となって 人を祈り 助け 導き」を受けて、人を祈ることから取り組む人があってよいということである。
さらに言えば、「願い」の1行1行は、神様を中心とした生き方への改まりを願っての実践であり、同時に、「神人の道を現す」取り組みの具体的な実践として押さえることができる。その際、大切なのは1行目の「御取次を願い 頂き」ということで、これが「願い」の基本になっている。御取次を願い、頂きながら、自身の信心の成長と改まりを求め、教主金光様が仰せられた神様と自分との縦軸を深め、その内容をもって、人や万物との横軸を育ませていただきたいということなのである。
私たちの命(いのち)の来し方や行く末に思いをいたす時、その道程にはさまざまな喜び、悲しみがあり、時々の社会がもたらす価値観にも翻弄されながら、自らの考えですべてを選び取ってきたかのような錯覚に陥りがちである。しかし、その大本は、「わが身は神徳の中に生かされてあり」と教えられているように、神様から頂いたお互いの命ということであり、神様との関係なくしては何事も成り立たない自分なのであって、この事実を見失ってはならない。
教祖金光大神様は、さまざまな難儀のなかで実意丁寧な生活を進められ、天地金乃神様に出会われた。また、明治維新という国の大変革で人々が混乱するなかにも、あくまで神様を中心にした生き方を求められ、そのご生涯を貫かれたのである。
共々に、まずは来年にお迎えする教祖130年のお年柄を目指して、運動の「願い」をもとに、天地金乃神様と自分との間柄に目覚め、その間柄を深めて、一人ひとりの生活に、神と人とあいよかけよで立ち行く「神人の道」を求め現し、お年柄をお迎えする内実としてまいりたい。
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