世界はわが心にあるぞ
天地金乃神様のお知らせをお受けになり、金光大神様は、壊れゆく世界を助けるために、家業をお止めになって取次に専念されることになった。そのことは、
「世が開けるというけれども、開けるのではなし。めげるのぞ。そこで、金光が世界を助けに出たのぞ」
というみ教えに拝することができる。「金光が世界を助け」るということは、金光大神様のご信心によって、天地金乃神様の救済を世と人に実現するということである。そして、この世と人を救うということは、今日の教団活動の中心課題でもある。
金光大神様が取次のことに専念されるようになって百五十一年、世と人を救う活動は、今日、大きな広がりをもって国内外で営まれている。もとより金光大神様のご信心は、天地全体をご神体とされている天地金乃神様のいとし子である「人」と、その人々が集まって生活を営む「世」の救済を目指すものであり、そこに国境などによる隔たりのあろうはずはなく、「神と人とあいよかけよで立ち行く」あり方を遍く世界に実現するというご神願は、私たちお道の信奉者が忘れてはならない、常に立ち帰るべき立ちどころである。
大谷の地にあって、世界全体の立ち行きを祈られ、参りくる信奉者一人びとりにご理解されて、一歩また一歩と「天下太平諸国成就総氏子身上安全」の世界実現に向かわれた生神金光大神様。そして、金光大神様のご信心をお受けになり、天地金乃神様の救済をそれぞれの時代社会に現してくださった、生神たる歴代金光様や直信・先覚・先師たち。その流れに連なる私たちは今、世界のさまざまな難儀に向き合う時、あらためて、金光大神様のご信心に発するわが道は世界の難儀な人々のためにこそある、という思いを深く抱いて、信心進修に取り組むことが必要であろう。
お道の信奉者は、いつ、どこで、どのようなことに出遭おうとも、神様に心を向け、金光様のみ教えを頂いて生きていくのであるが、信心には、信心させていただいておかげを受けるという相と、おかげを受けた自分が人が助かるお役に立たせていただくという相がある。それは、おかげを受けた自分が、その先の人生をどのように生きていくかということでもある。病気が治るおかげを受けた自分が、元気になった体をどのように働かせるか。金銭のお繰り合わせを頂いた自分が、その金銭をどのように使わせていただくか。人と仲良く暮らせるようになった自分が、その仲良しをどのように広げていくか。そうしたことを常に自らに問い、お取次を頂きながら信心生活に取り組んでいくのが、お道の大切な生き方である。
おかげを受けた自分が、そこから先の人生をどのように生きていくかという時、できることなら冒頭に掲げたみ教えに心をいたし、「金光が世界を助けに出たのぞ」と仰せになる、金光大神様の信仰世界に参入させていた
だきたいという願いを持っていきたいものである。 金光大神様はある時、国枝三五郎師に、
「午の年、その方は小さいことばかり考えているが、此方は、世界をこのお道で包み回すようなおかげがいただきたいと思っているのである」
とみ教えになった。そして、市村光五郎師には、
「心は広う持っておれ。世界は広う考えておれ。世界はわが心にあるぞ」
とみ教えになった。こうした心の広いご信心を今月今日に頂いて、常に信心の帯をしっかり締め直し、自ら進んで、道を伝え、人を助け、世を救うお役に立たせていただくことによって、神慮(はか)らい奇しく、わが思いの及ばざる人生が、遠く遙かに開けゆくことになるであろう。このことは、今を生きる私たちにとって、先を楽しむ信心の要諦と言ってよいのではなかろうか。
佐藤範雄師は、しばしば「着眼大局、着手小局」ということを口にされたという。意味するところは、目の付けどころは大きくとり、手立ては一手一手着実に講じていくということであろう。お道の先輩方は、「金光が世界を助けに出たのぞ」と仰せになる金光大神様の心の広いご信心に導かれて、世界に向かって一歩一歩お道を開いていかれた。
そうした先輩方に続く思いで、世界のいずれの場所で信心生活を進めていようと、いずこの地で布教に従っていようと、私たちは、「世界はわが心にあるぞ」と仰せになるご信心に奮い立って、日々の信心生活を進めてまいりたい。そして、金光大神様のご信心に発するわが道は世界の難儀な人々のためにこそある、という信念を胸に秘めた取り組みが随所でなされる時、世界の平和と人類の助かりのお役に立つお道の活動は、よりいっそう着実なものになっていくであろう。