同じ苦しみ持つ人々を祈る【金光新聞】
不登校の娘が元気な心で学校に通えるには
自分が苦しい経験をすることで、同じように苦しむ人の心が分かり、その人たちの助かりを願う神心が生まれてくることがある。それは、この私にその人たちが助かるために祈り抜いてほしいという、神様の切なる願いかもしれない。
私の娘は小学3年生から6年生まで、不登校だった。当時、娘は学校で周りから向けられる言葉や態度に傷つき、また校則や学校の風紀に不自由さを感じて苦痛だったのだと思う。その苦痛を避けるために学校へ行かなくなったのだが、今度は学校に行かないことで親に心配を掛けてしまうとの思いから自分を責めるなど、えも言われぬ苦しみを抱えていたと思う。
そのような心境は、不登校の経験とその思いを絵と詩で表現した本『あかね色の空を見たよ─5年間の不登校から立ち上がって』(堂野博之著)にある次のような詩に表われているように感じる。
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学校行けなくて苦しい
学校行きたくなくて苦しい
学校行って苦しい
学校に来た私を見て
よかったよかった
先生なにがよかったの
父さんなにがよかったの
母さんなにがよかったの
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周りの大人が学校に行きさえすればいいとする考えを持つことが、子どもをますます苦しめてしまうのだ。私も本当にそうだと共感し、子どもの視点に立って神様に助かりをお願いさせて頂きたいと思った。そのために、学校に行く行かないにかかわらず、まず娘のことをしっかり受け止めるよう努めた。
その上で、学校に行くのも、行かないのもつらい状況にいる娘にとっての助かりとは何かを求めていった。そして、学校が行きやすい場となり、元気な心で楽しく通えることが一番の助かりではないか。そう思い至った私は、娘が楽しく学校に通えるようになることを神様に願っていった。
そうしたある日、「自分の子どもさえ学校に行くことができれば、それでいいのか」という言葉が胸に響いてきた。私は神様からのお知らせだと頂いた。考えてみれば、今この瞬間にも、多くの親子が不登校のことで苦しんでいる。当時は日本に13万人の不登校の子どもがいると報道されていた。その一人一人が皆、楽しく通える学校があり、助かるようにお願いさせてもらうことが大切なのではないと気付いたのだ。
神様は、私たち親子の苦しみを通して、多くの人の苦しみも分からせてくださり、同じような苦しみを持つ人の助かりを祈ることを促しておられるように感じた。私なりにそのことに取り組み、一心にご祈念するようになった。
そうして、娘が小学6年生の夏、ある中高一貫校が新設されるという話がにわかに起こった。その学校は、生徒の自主性と尊厳を重んじたとても緩やかな校風を掲げ、しかも不登校児のための入学枠(8人)があった。娘はその学校に入学させて頂くことができたのだった。
娘は校則による束縛や、周りからの同調圧力に敏感で、それらに苦痛を感じやすいところがあったようだ。私は、神様がそういう娘にふさわしい場所を準備してくださったと感じた。そして、「娘だけでなく、娘も含む8人の不登校児に道をつけてくださった」と、ありがたく思っている。同じ苦しみを持つ人々の助かりに向けた祈りを、神様が確かに受け取ってくださった、という手応えを感じた出来事だった。
自分が苦しいと思っている時、神様は、われわれに「どうぞ、同じような問題で苦しむ人たちを助けてください」という祈りが生まれることを願っておられるのだと思えてならない。