難儀通し本心の玉磨き【金光新聞】
「うん!」
先代教会長である私の父は80歳を過ぎてから、長い闘病生活を送りました。
直腸がん、食道がんの手術と、両肺、股関節、前立腺の手術と並行して、がんの再発、再々発による長期間の放射線治療を行うなど、とても過酷なものでした。
その父が最初の検査を終えた際、私に、「がんであっても、余命何カ月と言われたとしても、何も心配がない。そう思えるわしは、おかげを頂いとるのう」と言った言葉は、今でも忘れられません。
父は、それからの闘病生活を何の不足も言わずに黙々と立ち向かっていましたが、やむを得ず人工呼吸器が取り着けられ、もう声を発することができなくなった時は、看病をしていた私の妹や看護師に、筆談で怒りをぶつけたようです。
私はその時、長年、父に対して抱いていたある疑問について、尋ねる時節を神様から頂いたと直感しました。
父はとても温かい人柄で、柔軟な考えを持っていました。ただ、物事に対して、人心(ひとごころ)というか、人情を最優先する傾向が強く、それ故私は、信心において最も大切な、神様の願いを頂いて物事を判断することがおろそかになっているように感じていたのです。
意を決して、私は父に、「今の状態は、本心の玉を磨かせて頂いていると思います。めぐりのお取り払いもさせて頂いていると思います」と、筆談で伝えました。
すると、父の眼光が一変しました。そして、しばらく壁の一点を凝視してから、「うん!」と大きくうなずいたのです。
おそらく、父はその数秒間でこれまでの自分の信心を振り返り、信心の目的は、「本心の玉を磨く以外になかった」と、腹決めしたのだと、この時感じました。私はその父の姿を見て、拝まずにはいられませんでした。また、そのころから私の妻も、「おじいちゃんはすごいよ。神様になっていきよる」と、子どもたちに父の姿を伝えるようになりました。
信心の生きた証し
このような父の見事な生き方に触れて、人間には、神心を育てて本心の玉を磨き、神徳(神様から授かる徳)を積ませて頂く目的があって、この世に生まれてきているということを、私はあらためて確認することができました。
私は、人間は誰しも、神様から分け与えられた「神心」と、難儀をもたらす「めぐり」の両方を持って生まれてきていると思います。「前々の巡り合わせで難を受けおる」と教えられているめぐりには、この世で積むめぐり、家先祖のめぐり、持って生まれてきためぐりがあると思われます。
しかし、金光教の教祖様は、「信心は本心の玉を磨くもの」「悪いことがきても、これで、一つめぐりを取り払ってもらうのだ」と教えてくださっています。それは、めぐりや難儀と思われる事柄を、本心の玉を磨くための「磨き石」として尊び、頂くことです。それで、やがてめぐりは取り払われ、神徳を積むという目的も達せられていくことでしょう。
父は5年に及ぶ闘病生活の中、不思議と痛みで苦しむ様子がありませんでした。次々と起きてくる不自由を神様のお計らいとして受けていき、心が助かっていった父の晩年の姿は、本心の玉を磨いてめぐりが取り払われ、神徳を積ませて頂くという、信心の生きた証しであったと、私は頂いています。
※このお話は実話をもとに執筆されたものですが、登場人物は仮名を原則としています。