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嫌っていたのは私の方【金光新聞】

金光様、どうぞ笑顔にならせてください

 10年前、私は夫と子どもたちと一緒に、現在ご用をしている教会に後継として入りました。当初は、それまで暮らしていた所と地域性の違いもあってか、何かと壁にぶつかることばかりで、私は遠く離れた実家の教会に電話でお取次を頂くこともたびたびでした。
 中でも、毎日、朝夕の参拝を欠かさない京子さん(70)には悩まされました。というのも、夕方の参拝のたびに、私の言動をあげつらっては小言を言うのです。まるで私たちを追い出そうとでもするかのようで、その言葉に思わず涙してしまうことさえありました。
 私は毎日、夕方が近づくと、今日は京子さんに何を言われるだろうかと気が重くなりました。そして、京子さんが来てしゃべり始めると、とにかくこのつらい時間が一刻も早く過ぎてほしいと願うばかりでした。

 そんな日が続く中、なぜこんなにも苦しめられなければいけないのか、ここに来るべきではなかったのかもしれないと考えるようになりました。そしてそのたびに、神様は決して無駄事はなされないのだから、と思い直し、ひたすらご祈念し続けました。
 そんなある日の夕方、いつも通り気が重い中で京子さんを待っていると、ふと心に、「私も京子さんと同じだ」という思いが浮かんだのです。そして、京子さんが私のことを毛嫌いしているというより、むしろ私が京子さんを嫌っているのだと気付いたのです。
 「こんなことでは、おかげは頂けない。今日から笑顔で話を聞き、笑顔で話をさせてもらおう」。そう心に決めると、急に気持ちが楽になりました。
 そうこうしていると、京子さんが参拝してきました。私は〝金光様、どうぞ笑顔にならせてください。ご用にお使いください〟と心中祈念をしました。そして、京子さんが少し怖い顔つきで口を開きかけた時、「こんにちは。今日もよくお参りでした」と、精いっぱいの作り笑顔で私の方から話し掛けました。京子さんは一瞬、驚いた様子でしたが、すぐいつものように言いたいことだけ言って帰りました。

人の助かりを願って

 この日、自分でも驚くほど落ち着いて京子さんの話を笑顔で聞けたことが、ありがたくうれしくて、神様にお礼を申さずにはいられませんでした。
 それからというもの、京子さんの態度も少しずつ変わり始め、気が付くと私への小言がなくなり、少しずつ笑顔も増えていきました。そして、「少しだけど、お裾分け」と、たまに総菜などを私に持ってきてくれることもあり、それからというもの、私にとってあれほどつらかった夕方の京子さんとの時間が、全く苦にならなくなったのです。

 そうして数年がたったころ、京子さんは認知症になりましたが、しばらくは笑顔で毎日、朝参りを続けていました。その後、京子さんは施設に入り、私はその間もずっと変わらず京子さんのことをご祈念させてもらいましたが、1年後に亡くなりました。
 今思えば、京子さんは神様が私を育てるために差し向けてくださった人だったと、本当にありがたく思います。私は、京子さんとの関わりの中で、自分自身のつらさ、苦しさから逃れるために祈るのではなく、人の助かりを願って祈らせて頂くことを教えてもらったように思います。この経験を忘れることなく、人の助かりを祈らせて頂きたいと思います。

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タグ: 文字, 信心真話, 金光新聞,